徳川家康:徳川家康の遺言とはどんなものだったのか

徳川家康の遺言といわれているものは、次の四つのようなことです。
一、遺体は駿府城の近くの久能山に埋葬すること
二、葬儀は江戸の増上寺で行うこと
三、位牌は三河の大樹寺にすること
四、一周忌を過ぎた後に、日光に堂を建てて守り神とすること
などでした。天下を取った徳川家康としてはなんともつつまし気な感じもする遺言ではありますが、これを守って三大将軍家光は日光東照宮を建立しました。
ただ、家康としては小さいお堂を建ててと遺言していたつもりだったのですが、家康好きの家光としては出来るだけのことをしてあげたかったのでしょう。なんとも豪勢なものを作ってしまいました。これが家康の望みにかなっていたかどうかは分からないのですが、天下を治める徳川の威厳というものも考えれば、こうしたことになるのかもしれません。家康は神となって祭られることとなったわけですが、これは単に家光が家康に恩を感じていて、おじいちゃん子だったというだけではなく、日本に古くからあるご先祖様を大切にするという考え方の現れでもあるともいえるでしょう。ただ、当時の政権がこれに絡んでいるので、いろいろといわれることもありますが、基本的なところはご先祖様を敬うということです。

徳川家康:徳川家康ゆかりの城~静岡編~

徳川家康は、静岡と深い関わりがあります。浜松城は、静岡県浜松市中区にある城跡で、16世紀の初めに今川貞相によって築城されたと言われています。元は斯波氏が支配していた土地ですが、1514年、抗争に勝利した今川氏の支配下となり、領地内に曳馬城として築城されたのが最初です。
1568年には徳川家康によって攻略され、武田氏の侵攻に備えるべく1570年に拡張を実施、地名を浜松に改めると同時に、曳馬城は「曳馬」が戦に敗れることを連想させるため、浜松城へと改名しました。城主を務めた人の多くが出世したことから、「出世城」とも呼ばれています。
徳川氏の勢力増大もあり、徳川家康は1586年に駿府へと移り、築城したのが駿府城です。元は武田氏の領地でしたが、1582年に武田氏が滅んだことで徳川氏の領地となっていました。駿府城の築城は松平家忠が担当しましたが、1590年には権力を握っていた豊臣秀吉の領地になり、家康は一旦江戸へ国替えとなりました。
しかし、関ヶ原の戦いによって天下人となった徳川家康は、隠居した際に大御所として再び駿府の地に戻り城主となりました。徳川家康は1616年に亡くなりましたが、以降も徳川氏によって守られ、現在は資料館としても公開されています。

徳川家康:徳川家康ゆかりの観光地といえば?

徳川家康と言えば、全国統一を成し遂げただけではなく、その後250年以上続く江戸時代の始まりとなった偉大な戦国武将です。その功績は日本の長い歴史の中でも有数と言えるもので、歴史マニアの中でもファンの多い人物となっています。
そんな徳川家康、全国を統一したわけですから、ゆかりの地は全国各地にあるのですが、その中でもやはり東海地方は家康の出身地だけあって多くの観光地があります。今回は、そんな徳川家康ゆかりの観光地をいくつかご紹介します。
まずは出生地でもある愛知県岡崎市です。中でも、生まれた場所と言われる岡崎城は特に有名です。この岡崎城は明治時代に廃城となりましたが、現在は岡崎公園内に復元されその姿を見ることができます。天守閣にはもちろん登りたいところですが、他にも春には五万石の藤と呼ばれる大きな藤棚一面に花が咲き、これを目当てに訪れる人も多数います。時期が会えば寄りたいところですね。
そして、もう一つゆかりの地として有名なのが浜松です。この地にある浜松城は、岡崎城から本拠地が移された後17年もの間家康の居城となった場所です。この浜松城の見どころと言えば、現在も400年前当時の姿のまま残る石垣です。自然石を上下に組み合わせて積み上げたもので、その荒々しさ、風情は必見と言えるでしょう。

徳川家康:徳川家康が熱中した「鷹狩り」とはどんなものなのか。現代でもできる?

日本での鷹狩りの歴史の記録されたのは、355年の仁徳天皇の時代に遡ります。
その後、公家や皇族などが親しみ、さらに戦国時代には織田信長をはじめとする大名が積極的に取り入れており、卵から鷹を育成した記録書「養鷹記」を朝倉教景が残しています。
大名の中でも最大限に活用したのが徳川家康です。
徳川家康の鷹狩りの特徴は、単なる趣味の域を超えて養生法として行ったことが知られています。
「中泉古老諸談」によると、内臓の働きを促して食事や睡眠に良い影響を与えること考えた徳川家康は、体を鍛えるために活用し、側近に鷹匠組という技術者集団まで用意していたほどです。
また、歴代の将軍家の中では、三代将軍家光が好んでいたと伝えられています。
現代の日本では非営利活動法人日本鷹匠協会が活動しているので、初めての方でも時間はかかりますが鷹狩ができます。
空港で鷹匠が活躍していることでも知られています。
航空機の巨大なエンジンに鳥が巻き込まれるバードストライクを防ぐために鷹匠を配置し、滑走路上へ移動したり、近くで羽を休ませようとする鳥達を追い払います。
動物園などのショーでも活躍しています。
鋭い目つきをした猛禽類たちが静かに鷹匠の腕にとまり、合図をすると一気に獲物へ向けて飛びかかる迫力ある姿を楽しめます。

徳川家康:健康オタク「徳川家康」の食事にせまる

人生50年と言われた戦国の世において徳川家康は75歳という長寿を全うしました。「長命こそ勝ち残りの源である」と語っていた家康の健康と長寿を支えたのが食生活です。
天下人となり財も名声も手に入れた家康でしたが、「ぜいたくは月に2〜3度で十分」と言い、粗食を常とし、麦飯と豆味噌中心で食事をしていました。麦にはビタミンB1や食物繊維などが豊富に含まれます。家康の麦飯は、丸粒の大麦に胚芽や糠の残った精米しかけたお米を混ぜたもので、白米よりも多く咀嚼する必要があり、それが脳や胃腸の働きを活性化させ、活力の源になったのです。
また豆味噌は、大豆と食塩、水だけを原料に作られる家康の郷里である三河(愛知)の名産で、主原料の大豆には9種類の必須アミノ酸、ビタミンE、サポニン、イソフラボンを豊富に含む脳機能の活性に欠かせない栄養が多く含まれており、こちらも活力の源となりました。
さらに粗食を好む一方で、キジやツルの焼き鳥なども適度に食し、動物性たんぱく質を摂取していました。動物性たんぱく質は血管を強くし、筋肉の衰えを予防する効果があるため健康な体作りには必須成分です。
以上のように徳川家康は生涯にわたり、心身ともに健康維持に欠かせない栄養素を多く含む食事をとり続けたことで長寿を全うすることができました。

徳川家康:長寿の秘訣?養命酒と徳川家康の関係

日本の薬用酒として有名な養命酒は、1603年には徳川家康に献上されたと言われています。その際に飛竜のインを使うことが許され、日本初の商標が誕生したとされています。
徳川家康は1543年〜1616年で、73歳まで生きました。当時の73歳といったらかなりの長寿です。
もしかしたらこれを飲んで徳川家康も長生きしていたのかもしれません。
養命酒の効能は滋養強壮で、血行促進によって肉体疲労や冷えに対して改善効果を発揮します。漢方系の成分で副作用もほとんどなく利用できるのがメリットです。
徳川家康は小さいころに人質として生活した時期があり、その時期に長寿の秘訣を会得したとも言われています。一汁一菜など、現在でも体に負担をかけない食事方法がそれにあたります。
また、自分で調剤の方法を学ぶなど、かなり几帳面な性質も持ち合わせていたと言われています。薬用酒の中身やその漢方成分の効能についても詳しかったとしたら、それを使うと自分の健康に対してどれくらい利益があるのかをはかることができたでしょう。
徳川家康に献上され、飛竜の商標をもらい、現在でもまだ販売されているというのが、養命酒の歴史です。400年以上も歴史のある商品ということになります。

徳川家康:戦国史上たぐいまれない”健康オタク”徳川家康の健康法とは

徳川家康は、誰でも一度は耳にしたことがある有名な戦国武将の1人です。そんな家康は、実は人一倍健康法に気を遣う健康オタクだったのです。その甲斐あってか、当時の平均寿命が30歳程であったにも関わらず、徳川家康は実に2.5倍もの75歳まで生きたのです。
家康は常に粗食を心掛けていました。タンパク質やミネラル、ビタミンが豊富な麦飯を好み、豆味噌中心の食事をしていました。夏でも冷たいものは口にせず、体を冷やさないと同時にきちんと火を通すことで、衛生面にも注意していたのです。また栄養価や鮮度が下がる季節外れの食材も避けていました。一方で良質な肉をほどほどに食し、十分にタンパク質を補うことも行っていました。
晩年まで鷹狩りを楽しみ、起伏の激しい山地で足腰を鍛えたり、剣術、弓術、水泳、乗馬なども好み、積極的に体を動かしていました。更に薬学を熱心に学び、100種類を超える薬草を栽培して自ら調合していたともいいます。体の不調が現れた場合には早めに対処し、自分の体は自分で守る技術も身につけていました。酒も嗜好品としてだけでなく、疲労回復などに役立つ医薬としても注目していたのです。
このように、徳川家康は健康オタクとしてあらゆることを自ら実践していたのです。

徳川家康:徳川家康の辞世の句とその意味について

辞世の句とは、この世を去る前に詠み残した詩のことで、多くの歴史の偉人たちが残しています。特に、徳川家康が残した辞世の句には、天下統一を果たした家康ならではの思いが感じ取れる詩があります。
「嬉しやと 二度さめて一眠り 浮世の夢は 暁の空」
これを現代の言葉に訳すと、「嬉しいことだ。最期かと思い目を閉じたが、また目が覚めた。この世で見る夢は、暁の夜明けのように美しい。さて、もう一眠りするとしようか。」という意味になります。
今生で叶わなかった無念や嘆き、残される者への願いを詠むことが多い中、同じ戦国時代を生き抜いたほかの武将たちに比べ、なんとも明るく、心に余裕が満ちた内容の詩を残しています。幼い頃から今川家と織田家の間で耐え忍び、長い間チャンスをうかがいながら多くの家臣に助けられ、ようやく天下を手にした徳川家康。その人生は苦悩と困難も多かったに違いありません。天下統一を果たし、江戸幕府250年の礎を築いた家康は、死を目の前にして「すべてをやりきった。もう思い残すことはない。」といった清々しい気持ちでこの詩を詠んだことがうかがえます。その奥深さはもちろん、太平の世を願った徳川家康らしい平穏を感じさせる辞世の句です。

徳川家康:意外と知られていない徳川家康の死因とは

徳川家康の死因については、一般的には鯛の天ぷらの食べ過ぎによって、食中毒を起こしたことが知られています。ところが、天ぷらの原因については不可解な点が多いため、現在では3つの説が提唱されています。天ぷらについては、1616年の当時には京都で流行していて、お抱えの豪商であった茶屋四郎次郎から伝えられたことで、徳川家康の興味を引くことになりました。実際に天ぷらを食べてから亡くなるまでには、3ヶ月もかかっているため、食中毒にしてはおかしいと考えられています。

もう一つの説は、晩年には胃癌の症状で体力が衰えていて、脾胃の調子も悪い状態で天ぷらを食べたために、悪影響が重なったという話があります。この説には確かな実証があり、徳川家康の侍医頭が触診で診察したときには、中焦の部分にしこりがあったという記録が残っています。このときには胃癌の症状が進んでいて、天ぷらを食べたとされる1616年の初頭には、免疫力もかなり弱っていた可能性があります。

3つ目には、徳川家康が大坂の陣や関が原の戦いで戦死して、その後は影武者を使っていたとする説があります。この説については都市伝説的な要素がありますが、謎が多いことも事実ですから、多くの歴史家が真実を追い求めてきました。

徳川家康:徳川家康って一体どんな性格だったの?

徳川家康は一般的にはのんびりとして、忍耐強い性格だったといわれています。ただ、これは信長、秀吉と続いて最終的に家康が長生きをしたことで天下を取る事が出来たということから来たものとも考えられます。実際の徳川家康はかなり短気だったともいわれています。というのは、三方ヶ原の戦いという武田信玄と戦った戦では信玄という経験も人望もある戦上手に対して、信玄よりも少ない兵で城から出て挑み大敗を喫するという失態を演じていたりします。爪を噛むという癖があったことも伝わっていて、かなり気が短かったのではないかともいわれています。
関ケ原の戦いにおいては、息子の秀忠軍の到着を待たずに戦闘となり、勝ちはしたものの危うく負ける寸前まで追い込まれたりしています。ただ、自分の健康へは意識が高かったことは確かで自分で薬を調合できるぐらいに医薬の道に通じていて自分で薬を調合して飲んでいたともいわれています。
徳川家康は幼少時代は人質となって今川家に送られていたり、信長との同盟時代には信長の命で自分の長男信康を切腹させるというようなことを耐えてきたというイメージがあるので、忍耐強く生きてきたのではないかと考えられているのでしょう。