知ってた?「向かい干支」グッズで開運!

自分の干支が何なのか、きちんと知っている人はいても、向かい干支が何かを知っている人はあまりいないのではないでしょうか。十二支を順番に時計回りに配置した時に自分の干支と向かい合っている干支のことを言い、その干支のグッズを持ち歩いたり、部屋に置いておくことで自分の干支の持っているパワーよりさらに大きな開運効果を引き出すことができると考えられています。例えば酉年の人は卯が該当しますから、ウサギのグッズをたくさん集めておくと開運に繋がるという事です。明治時代の文豪も運気を上昇させるために自信の向かい干支のグッズを集めていた記録がありますから、その歴史はかなり古いんですよ。
向かい干支グッズは干支を特に意識しているものでなくてもよく、該当する動物があしらわれていたり、プリントされているものでもいいので、身近なもので簡単に実践できてしまいます。ぬいぐるみやストラップならキャラクターグッズになっているものもありますし、大半の干支の動物なら集めやすいのではないでしょうか。ねずみやうさぎ、犬などは特に集めるのには困らなそうですね。動物のイラストがプリントされているおまんじゅうなどを食べるのも運気を呼ぶことができそうです。

堺 妙國寺でしてはいけないこと

妙國寺は、大阪府堺市堺区にある日蓮宗の本山です。
幕末に起こった堺事件のゆかりの寺としても有名な場所です。
妙國寺には、立派な蘇鉄がありますが
古くは徳川家康、また正岡子規や夏目漱石も見たという蘇鉄です。
この蘇鉄は織田信長がたいへん気に入り、安土城に移植させたのですが
毎夜毎夜、「堺へ帰ろう、妙國寺へ帰ろう」とすすりないたそうです。
激怒した信長は、その蘇鉄を切り倒そうとしたところ切り口から鮮血が流れ出てきたそうです。
気味が悪くなった信長は、妙國寺に返したといわれているのです。
そんないつわのある蘇鉄ですが、カメラやビデオでの撮影はダメだといわれています。
館内の中も撮影は禁止されています。
また、堺事件で切腹した11人の烈士の墓石があるのですが
その中に立ち入ってお参りするのもダメだといわれています。
館内には、ロマンのあるものがまだまだたくさん残っているようですが
写真に収めるのは禁止されています。
逸話のある蘇鉄や11人の烈士の墓石をみるためには、入館料が400円かかりますが
館内を案内してくれる方がついてくれますので、丁寧な説明を聞きながら
館内を回ることができるので、写真撮影をしなくても満足感に浸れることでしょう。

男の険難と女の安産を守ってくれる大蘇鉄のある「堺 妙國寺」

妙國寺にある、名勝妙國寺庭園には、立派な石組に囲まれた、見事なソテツの木があります。樹齢は1100年以上で、国の天然記念物に指定されている名木です。ソテツは暖かい地方のお屋敷や寺によく見かける植物で、漢字で蘇鉄と書かれるとおり、弱っていても鉄を根元に与えると蘇ると伝えられています。
妙國寺(堺市堺区)のソテツには、織田信長にまつわる伝説があります。
妙國寺のソテツに魅了された織田信長は天正7年、この木を自らの居城である安土城の庭に移植しました。ある夜、庭を眺めながら一人静かに考え事をしていると、どこからともなく奇妙な声がしてきます。家臣に調べさせたところ、ソテツの木が妙國寺を恋しがり、しきりと「帰ろう」と繰り返しているとのこと。声を聞くうちに我慢ならなくなった信長は、切ってしまえと家来に命じますが、切りつけた家来は皆血へどを吐いてばたばたと地面に倒れる始末。さすがに祟りを案じた信長は、ソテツを妙國寺へ返上しました。
寺に帰れたソテツは安心したのか、それまでにたまった疲れが出てぐったりと弱ってしまいました。妙國寺を開山した日蓮宗の名僧日珖が、法華経一千部を唱えてソテツの回復を祈っていると、ソテツの声が聞こえます。「根元に鉄でできたものを埋めてください。あなたのお経と鉄分で私が生き返ることができた暁には、男を険難から守り女の安産を助ける神となって、ご恩返しをいたしましょう。」
日珖に命じられた鍛冶屋の鉄屑を与えられたソテツは見る見るうちに元気になり、宇賀徳正竜神と名付けられ御堂も建てられました。それ以来、安産祈願の人々がソテツの根元に折れ針や鉄屑を埋めるようになりました。

森鴎外の「堺事件」の地、堺 妙國寺へ行ってみよう

妙國寺は、大阪から電車で約40分、南海高野線堺東駅から北西に歩いて約10分の場所に位置します。

日蓮宗が本山の妙國寺(堺市堺区)は、森鴎外が1914年(大正3年)に発表した小説「堺事件」の題材になりました。

森鴎外の「堺事件」は、土佐藩士が妙國寺の境内にてフランス兵士を殺害した責任から切腹を命じられ、命を落とすまでの経緯を非情かつ冷静な文体で描ききった歴史小説の金字塔です。

創作でありながらも、その当時の様子は史実に忠実です。寺の境内には、歴史を語る上で欠かせないものたちを見ることができます。まず、庭園には、堺市指定名勝で国指定天然記念物のソテツ(蘇鉄)。このソテツは織田信長が移植のため切り倒そうとしたところ、その切り口から鮮血が流れたという伝説のソテツです。

また、千利休が戦国武将をもてなす際に用いたとされる、利休ゆかりの手水鉢や灯篭も残っています。

土佐藩士の無念、そして、切腹という儀式を通して語られる藩士の潔さと勇敢さ。

妙國寺前の宝珠院に葬られた、藩士のお墓を前にすると感慨深いものがあります。

森鴎外が描いた幕末の壮大な歴史小説、妙國寺(堺市堺区)を訪れ、その雰囲気を味わいながら再読してみてはいかがでしょうか。

堺市民に愛され続ける堺 妙國寺の歴史

妙國寺(堺市堺区)は、今でも堺市民から愛され続ける名刹で、400年以上の歴史を有しています。

周囲が都市化する中でも、壮麗な伽藍を維持し、時代の荒波と戦ってきた寺院としても知られる存在です。

戦国時代に畿内で大勢力を有していた三好氏の一族の中で、三好之康が帰依したことは有名ですが、戦死後には意志を引き継ぐ形で、日蓮宗の名僧によって開山したのが始まりです。

最初に伽藍を建立したのは1568年のことであり、広普山妙國寺という名称が与えられ、勅願所に列せられていました。

1571年には大規模な本堂が落成し、大伽藍は学問の中心地としても大いに繁栄しました。

大坂の陣では徳川家康が潜んでいるという情報がもたらされた影響で、豊臣軍によって焼き討ちにされて、寺域は焼け野原になってしまいました。

江戸時代には徐々に復興が進み、堂宇も創建当時の状態に戻りますが、1945年の大坂大空襲によって再び壊滅的な被害を受けています。

妙國寺(堺市堺区)は、長い歴史の中で何度も戦火に巻き込まれてきましたが、太平洋戦争後にも見事に復興し、1973年には本堂が再建されています。

境内には樹齢が1100年になるとされる大蘇鉄が残り、妙國寺(堺市堺区)の歴史を象徴する植物として、毎年のように注目を集めています。

「英傑三国誌伝」にでてくるソテツのあるお寺「妙國寺(堺市堺区)」

妙國寺(堺市堺区)のソテツは英傑三国誌伝に描かれています。織田信長によって安土城に移植され、激怒した信長がソテツを切ったところ血が流れたことで、気味が悪くなり寺へと返された逸話があります。その妙國寺(堺市堺区)は、大阪市の南、堺区にある日蓮宗の本山で、幕末の土佐藩士切腹で堺事件としてゆかりある寺でもあります。寺内にあるソテツ「大蘇鉄」は国の天然記念物でもあり、堺のシンボㇽともなっています。樹齢は1,100年を超え織田信長の逸話などは「蘇鉄の伝説」としても伝わっています。また蘇鉄だけでなく、お寺の庭園も堺市の指定文化財になっており、蘇鉄を取り囲む石組みの風景は見事で珍しくもある組み合わせは、回遊式枯山水庭園と言われます。妙國寺は日蓮宗の僧侶が開いたとされ、庭園以外でも千利休が寄与した六地蔵灯篭や瓢箪型手水鉢などもあり、慶応4年に堺港に上陸したフランスの軍艦兵に対し土佐藩士が阻止を企みフランス兵を数十名殺傷し、切腹したことで、「とさのさむらいはらきりのはか」の刻まれた石碑も有名です。また相州鍛冶の祖である新藤五の短刀銘や備前長船住長義の脇指も重要文化財として、堺市博物館に保管されています。

堺 妙國寺にはなぜ土佐十一烈士の供養塔があるのか

妙國寺(堺市堺区)は日蓮宗の日珖が開いたとされており、樹齢約1100年のソテツが有名で通称・蘇鉄寺とも呼ばれています。ちなみにこの大ソテツは国の特別天然記念物にも指定されており、「夜泣きのソテツ」という逸話が残っていることからも安産祈願のお寺として多くのひとに親しまれています。
さて、そんな妙國寺(堺市堺区)には土佐十一烈士の供養塔があることをご存知でしょうか。これはいわゆる「堺事件」の際に土佐藩士11名がこの妙國寺で切腹をしたことに起因します。堺事件とは慶応4年、堺の港にフランス水兵が上陸した際に、当時堺の警備の任に当たっていた土佐藩士に殺傷された事件のことです。フランス公使であったロッシュは政府に対し、関係した藩士の斬首、賠償の要求などを行いました。政府もフランス側の要求を飲まざるをえず、賠償金の支払と、事件に大きく関与した箕浦猪之吉以下20名を切腹させる事となりました。この際、切腹していく藩士たちはフランス人たちに内臓を投げつけたと言われており、あまりの凄惨さにフランス側の被害者と同数の11名が切腹したところで、刑の中止となりました。
他にも織田信長、千利休など歴史上の人物もゆかりのある妙國寺に一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

堺 妙國寺の庭園は堺市指定文化財!

妙國寺(堺市堺区)は、大阪府堺市堺区にある日蓮宗の本山です。日珖が開いたとされており、日本で唯一の蘇鉄が中心となった枯山水庭園です。境内にある大蘇鉄は樹齢1,100年程と言われており、国指定の天然記念物でもあります。
この蘇鉄にはとある伝説が残っています。天正7年(1579年)に織田信長が安土城に移植させたところ庭の蘇鉄が帰りたいと呟く様になったのです。怒った信長が、切り倒しを命じたところ家来がみな血を吐いて倒れてしまいました。信長が祟りを恐れたことからとうとう妙國寺に返還されることとなりました。戻ってきたものの、蘇鉄は弱り、枯れる寸前になってしまいます。そんな弱り切った蘇鉄が、日珖に鉄分のものを与えて、仏法の加護で蘇生することができたら、恩に報いる為に男の苦難除けと女の安産を守ると約束したという言い伝えがあるのです。日珖が鍛冶屋を呼んで、鉄屑を根元に埋めさせたところ、枯れかけていた蘇鉄は蘇り、その後は寺で、守護神宇賀徳正竜神として祀られることとなりました。このことをきっかけに、妙國寺の蘇鉄は安産祈願のスポットともなっています。蘇鉄の根元に安産を祈願して、鉄屑などを埋める人達も多いのです。
また、妙國寺(堺市堺区)の庭園には、千利休に寄贈された六地蔵灯篭や瓢箪型手水鉢もあり、本能寺の変の際には徳川家康が宿泊していたことでも有名です。堺市指定文化財として堺の町が誇る存在となっています。

徳川家康:正室2人、側室16人以上?の子だくさんパワー!

江戸幕府を開いた徳川家康。その正妻や側室の数は意外と知られていません。では何人いたのかといいますと、正妻が2人、そして側室はなんと16人以上?存在していたのです。

当時の大名には、後継ぎを産むために側室がいるのが当たり前ではありますが、この数は群を抜いています。

徳川家康の最初の正妻である『築山殿(つきやまどの)』は、今川義元の親戚にあたり、家康が今川家で人質時代を送っていたときに正室となりました。長男信康を産んでいますが、織田信長の命によって信康ともども家康により殺されてしまいました。

二人目の正室である『朝日姫(あさひひめ)』は豊臣秀吉の妹であり、これは完全な政略結婚。子供を授かることはありませんでした。そのかわり、家康は16名もの側室を持ち、多くの子供を授かっています。

二代将軍秀忠も側室が産んだ子供です。この多くの側室の中でも家康に寵愛されたのが『阿茶局』です。彼女は家康の子供を産むことはありませんでしたが、家康からの絶大なる信頼を勝ち得ていました。

彼女は1614年の大阪冬の陣では豊臣方との和睦交渉の大役を任されるほどでした。彼女は側室というよりも家康の参謀と言えるような立場の人だったのです。

徳川家康:徳川家康と徳川埋蔵金

徳川埋蔵金伝説の発端は、江戸時代が幕を下ろし、明治時代に移り変わる時、旧幕府軍が持っていたと思われる幕府御用金が全くなかったことで、どこかに隠してあるのではないかという騒ぎになり、当時の勘定奉行が隠遁していた場所を中心に、このあたりに徳川埋蔵金があると噂になり、至る所で発掘が行われるようになりました。それが伝説として今も語り継がれています。

徳川家康が残した軍用金をめぐっても、こうした徳川埋蔵金伝説はあります。1616年に徳川家康が亡くなった際、駿府城には多くの金銀がありました。その金銀は日光東照宮の建立に使われ、駿府城にあった金銀は跡形もなく消えたと言われていました。しかし、この際に実は裏帳簿があり、一部が残されているのではないかという説が言われたこともあります。他にも、江戸幕府自身が他の大名の埋蔵金を発掘し、それを保管していたのではないかという説まであります。江戸時代から本格的に貨幣経済がスタートし、米を貨幣に換えるなど、様々な形で貨幣が登場し、小判に含まれる金の含有量で貨幣の価値を決めるなどしてきました。こうした名残から、小判として最も価値の高かった徳川家康の時代のものなどは今でも取引される値段が高くなっています。