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堺 妙國寺に行ったら見ておくべきもの

南海電車の「堺東」駅の西にある堺東の商店街を抜けて、数分北へ歩くと妙國寺というお寺が…

この妙國寺の境内には、1924年に国の天然記念物に指定されている大蘇鉄が植えられていて、戦前は堺の観光といえば妙國寺ということで、大蘇鉄にご利益を求めた観光客で賑わいを見せておりました。
そして妙國寺には、本堂東側に位置する庭園と、国の天然記念物に指定された大蘇鉄とで構成されている、枯山水庭園があります。

この枯山水庭園は、白い砂がひかれた庭と、亀石組とよばれる石組の中に植えられている大蘇鉄の緑の色合いバランスが見事です。
庭園は、築山を築かない配植がなされており、平庭林泉回遊式枯山水となっています。

滝口に見立てた中央の富士型の石組みの枯れ流れの先には、石橋を架けて景色が作られた一筋と、北東の位置から低い滝口が作られて、その先に切り石の橋を架けて、枯れ流れを二筋設けています。

この二筋の枯れ流れは、方丈正面護岸石組み前で合流させて、緩やかな川の流れの景色を完成させています。
妙國寺には、この他にも千利休から贈られた六地蔵灯篭や、瓢箪型手水鉢などがあり見学できます。

勿論、一見の価値ありです‼

堺 妙國寺にゆかりのある歴史上の人物とは

妙國寺(堺市堺区)にゆかりのある歴史上の人物としては、まず徳川家康がいます。

これは本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれた時に、この妙國寺(堺市堺区)に宿泊していたといわれています。

この時家康は堺の鉄砲などを視察する目的でこのお寺に来ていたのです。

本能寺で信長が殺されたという知らせを受けた家康は、ここで切腹をしようとしたともいわれていますが、家臣の諫めに応じて思い直し、本国に戻ることにしたともいわれています。

一時は死ぬならばここでというようなことが頭をよぎったのかもしれません。
また、千利休が寄贈したといわれている、「六地蔵灯篭」や「瓢箪型手水鉢」がありますから、千利休などの茶人にも愛されたところなのでしょう。
そして、堺事件といわれる土佐藩士によるフランス帝国水兵殺傷事件のときの土佐藩士が切腹した地としても有名です。

傍若無人の振舞いをするフランス兵に我慢が出来なかった当時の人たちの想いがここにあったようにも思われます。

言葉がつうじなかったことで、銃撃戦となり双方にかなりの被害が出たようですが、20名は切腹を命じられ11名が切腹したところで、立ち合い検視人も見るに見かねて中止となり、9名は流罪となりました。

徳川家康は堺 妙國寺に宿泊していたから死なずに済んだ!?

京都で本能寺の変がおきて信長が家臣の明智光秀殺された時には、徳川家康は妙國寺(堺市堺区)に宿泊をしていました。

これは堺の鉄砲などを視察するためで、この妙國寺(堺市堺区)に泊まっていなければ徳川家康は危なかったのです。

何故かというと家康は信長の同盟者で、信長を討った光秀としては真っ先に討たねばならない相手だったからです。

明智光秀は京都に来ていた家康の接待役をしていたこともあり、家康を討つ好機でもあるといえたでしょう。

実際家康は本能寺の変を知った時には自害をすることも口に出したともいわれています。

家臣に考え直すよう説得されて、伊賀越えで三河に戻ることを選択することになるわけですが、この本能寺の変というのは家康にとっては寝耳に水の驚きの事だったはずです。

何しろこの時の家康はほとんど護衛の兵士を連れてきていません。

物見遊山で来ているわけですから当然ですが、その状態でいきなり謀反がおきたわけですから、かなり危ない状況であったことは間違いのないところです。

幸い服部半蔵が伊賀の出身で伊賀の者たちを説得して道を通ることが出来たものの、一緒に来ていた穴山 梅雪は殺されています。

ですから、家康もまかり間違えば、殺されていても不思議はなかったのです。

堺 妙國寺には徳川家康も宿泊していた!

徳川家康は織田信長が殺された本能寺の変があったときには妙國寺(堺市堺区)に泊まっていました。

この妙國寺にいたことで、家康は光秀に殺されなかったのです。

もちろん、光秀は信長を襲った後に家康を探索していたのでしょうが、結局は伊賀越えで三河の所領に帰らせてしまいました。

この時光秀が、家康も信長同様に殺害出来ていたら、天下は光秀のものともなっていたかもしれません。

何しろ家康は当時信長に次ぐ実力者でもありました。信長の同盟者ということは光秀や秀吉は家康の下ということでもあるのです。
このあたりがやはり、本能寺の変は前々から計画されていたわけではないという根拠にもなりそうです。

賢い光秀が信長を討つことだけを考えていて、家康を考えていなかったというのは考えにくいからです。

本能寺の変では家康だけではなく信忠も考えられてはしませんでした。

当時信長は跡目を既に信忠に譲っていましたから、織田家の正確な当主は信忠です。信長を討っても織田家は信忠か運営していくでしょうから、信忠を討たなけば意味がないのです。

最終的には信忠が逃げないで御所で戦うことを選んだので、光秀はこれを討つことが出来たのですが、信忠が家康のように逃げることを選んでいたら歴史は全く違っていたでしょう。

堺 妙國寺のソテツの根元に「鉄」を埋めるとご利益がある?

妙國寺(堺市堺区)は樹齢1100年を超える大ソテツがあり、国指定の特別天然記念物であることからも多くの方がご存知なのではないでしょうか。
さて、その大ソテツの根元に鉄を埋めることでご利益があると古くから伝えられていますが、それは「夜泣きのソテツ」といわれる逸話に由来しています。
世は戦国時代、当時は大変珍しかった妙國寺(堺市堺区)にあるソテツを見初め、時の権力者である織田信長が安土城へとこのソテツを移植しました。しかし、このソテツが夜な夜な「堺に帰ろう、妙國寺に帰ろう」とすすり泣き、それに激怒した信長が部下にこのソテツを切りつけさせました。するとその切り口から鮮血のようなものが吹き出し、ソテツが大蛇のように身をくねらせ悶えた様子をみた信長はさすがに不気味に思い妙國寺に返還しました。傷だらけのソテツは今にも枯れそうだったため、日珖が蘇生のための読経を読み上げたところソテツが、「鉄分のものを与え、仏法の加護で蘇生すれば、男の剣難と女の安産を守ろう」と告げたことから、鉄屑を根元に埋めたところ蘇生したというものです。この逸話から、現在でも多くの方から安産祈願としても人気があります。他にも千利休をはじめとした妙國寺にゆかりのある歴史上の人物もいますし、興味がある方は一度立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

幕末に起こった堺事件ゆかりの寺「堺 妙國寺」とは

妙國寺(堺市堺区)は1562年に日蓮宗の僧侶、日珖が開いたとされています。
境内でひときわ目を引くのが、何本もの手を伸ばしたような枝ぶりのソテツの大木。樹齢1100年を超えると言われ、国の天然記念物に指定されています。
このソテツには不思議な言い伝えが。戦国時代、ソテツはとても珍しい植物でした。新しいものに目がない当時の天下人・織田信長もその噂を聞きつけ、ついには安土城に移植してしまいます。が、喜んだのも束の間、驚くことにソテツは毎晩「帰りたい」と泣き出したのです。信長は怒ってソテツを切り倒すように命じますが、なんと切り口からは鮮血が滴り、大蛇のように身をよじらせて抵抗。さすがの信長も気味悪がって、泣く泣く妙國寺に返還したといいます。
そんな大木が見守る妙國寺(堺市堺区)ですが、幕末に起きた「堺事件」の処刑の舞台としても知られています。
境事件は、1868年に攘夷を訴える土佐藩士によって、日本上陸後遊びまわっていたフランスの水兵11名が殺害された事件です。当時、開国派と攘夷派で揺れる日本にとって大きな出来事でした。フランス側は隊士全員を処罰するよう訴えましたが、朝ドラでもその活躍が取り上げられた大阪経済の父・五代友厚らの交渉により、20人の切腹で合意に至りました。この切腹が実施されたのがここ妙國寺でした。切腹の際、藩士は自分の腸を手でつかんでフランス側に叫びます。その様子に恐れをなし、フランス軍艦長は五代に対し死刑の中止を要求。結果、9名の命が救われました。この出来事は後に森鴎外が小説に著し、境内には供養塔も建てられています。
妙國寺は、そんな波乱を経て今も堺市の歴史を刻んでいます。

堺 妙國寺へのアクセス・料金は?

妙國寺(堺市堺区)は日蓮宗の本山で、元亀2年に本堂竣工、幾度もの災禍に見舞われ焼失、再建されており、現在の本堂は昭和48年に再建されたものです。
妙國寺(堺市堺区)へのアクセスは阪堺線妙国寺前駅から徒歩5分の場所に立地しており、拝観料金は大人400円、小
中学生は200円です。
妙國寺の大ソテツは樹齢1100年以上と言われ、国指定の天然記念物にも指定されており、このことからも通称・蘇鉄寺とも呼ばれています。また、このソテツには「夜泣きの蘇鉄」という逸話があります。戦国時代はソテツは大変珍しがられ時の権力者である織田信長がこれを見初めて安土城に移植したものの、毎夜毎夜ソテツが「堺へ帰りたい、妙國寺へ帰りたい」とすすり泣くため信長が部下にソテツを切り倒しを命じたところ、みな血を吐いて倒れたことから、さすがの信長も気味悪がり、妙國寺に返還したというものです。痛めつけられたソテツは今にも枯れそうだったものの、日珖による蘇生のための読経により見事に蘇ったというものです。こういった逸話やソテツの生命力の強さからも安産祈願としても人気があります。
他にも明治時代の「堺事件」のも部隊となった妙國寺、歴史に触れる機会として、近くに来た方は立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

千利休、所縁の地「堺 妙國寺」とは

妙國寺(堺市堺区)は日蓮宗の寺で16世紀半ばに開山しました。境内には樹齢1100年を超える国指定の天然記念物のソテツがあります。このソテツには伝説があります。安土桃山時代に織田信長の希望で安土城に移植されましたが、毎晩寺が恋しいと泣き怒った信長に切り倒されそうになったものの切り口から血を流し苦しむソテツにおびえた信長が寺に返したというものです。日本で唯一のソテツを配植した枯山水庭園があり堺の名所となっています。妙國寺(堺市堺区)のこの庭園には堺の裕福な商家で倉庫業を生業とする納屋衆の家に生まれた千利休が寄贈したといわれる瓢箪型の手水鉢もあります。織田信長、豊臣秀吉に仕え、わび茶を完成させた茶人です。楽茶碗の制作や竹の花入れの使用や、草庵の茶室を普請するなどしています。茶の湯を総合芸術としてとらえ一期一会の充実した時間を過ごすことが出来るよう心を砕いたのです。このように天下の茶人となった千利休ですが妙國寺への手水鉢の寄進は故郷の堺に寄せる思いを推察できます。この寺は1868年に堺港に上陸したフランス兵が婦女子に乱暴しようとし起きた堺事件でフランス兵を殺傷した佐藩士が切腹をした場所でもあります。

堺 妙國寺には千利休が寄贈した六地蔵や手水鉢が!

妙國寺(堺市堺区)は、16世紀半ばに日蓮宗の学僧である日珖が開山したとされています。「本能寺の変」の際に、徳川家康が宿泊していた寺としても有名です。
境内には本堂や龍神堂、大蘇鉄や伝三重塔柱跡のほか、市の名勝として指定されている平庭林泉回遊式枯山水庭園があります。
大蘇鉄は樹齢1000年を超える国の天然記念物で、一旦は安土城に移植されたものが、毎晩のように帰りたいと泣いたことから織田信長によって斬られたものの、大蛇のごとく悶絶したことで恐れられ、妙國寺に戻されたという伝説もあります。
伝三重塔は焼失した後1658年に再興したものの、1945年の空襲により再び焼失しました。
敷地内にある蘇鉄の枯山水庭園は日本で唯一とされ、千利休からの寄贈品、瓢箪型手水鉢や六地蔵灯篭も置かれています。
1868年には、堺の警備をしていた土佐藩士が、傍若無人な振る舞いをしていた20人以上のフランス兵を斬りつけたことから問題となり、この地で切腹をした「堺事件」が起きたため、慰霊碑が建てられています。
妙國寺(堺市堺区)は江戸時代の頃から名所として有名な場所ですが、近年は市の指定文化財となるなど、復元整備も進み多くの観光客が訪れています。

堺 妙國寺にある”霊木ソテツ”の歴史とは

妙國寺(堺市堺区)には霊木ソテツと呼ばれるソテツの木があります。こちらの木には非常に興味深い歴史があります。昔、戦国時代の織田信長が、南の国から妙國寺(堺市堺区)にやって来た珍しいソテツに興味を持ち、権力でもって安土城へ移植しました。ところがそのソテツは、妙國寺に帰りたいと毎夜すすり泣き不気味がられました。その状況に怒った信長が部下にソテツを切らせたところ、切り口から鮮血が流れ出、大蛇のようにのたうったとのことです。あまりにも気味が悪いため、妙國寺に送り返しました。切られたソテツは衰弱して枯れそうな状態で返されたのですが、日珖上人が読経したところ回復したため、ここから「蘇鉄」と呼ばれるようになったと伝えられています。この言い伝えは、江戸後期に書かれた武勇伝である「英傑三国誌伝」にも登場しており、織田信長を震撼させたソテツの伝説として有名です。現在で樹齢1,100年と言われており、堺では唯一つの、国の天然記念物にも指定されています。また、この妙國寺は永禄5年建立の寺ですが、2度の大火をくぐり抜けた霊木ソテツとしても有名です。1度目は大阪夏の陣で、徳川家康妙國寺に有りと聞きつけた豊臣兵により火を放たれ、2度目は堺大空襲により寺が消失しています。現在の寺は再建されたものです。妙國寺(堺市堺区)と霊木ソテツにはこのような歴史があるのです。