徳川園は、名古屋城から東に3km離れたところにあります。
徳川家康の孫にあたる、徳川光友の隠居所であった大曽根お屋敷跡です。
徳川家の大名庭園であったところで、生い茂る木々やおおきな岩が立体的に
組み合わさっている、高低差のある庭園です。
徳川園の中には見ごたえのある湖や滝などが沢山あるのですが
パワースポットといわれるところは、庭園の中ではありません。
反対に、庭園の中には観光客が落としていく良くない「気」が貯まっている
とも言われているので観光するときは気を引き締める必要があります。
徳川園のパワースポットは、見過ごしがちな1本の「大木」です。
黒門前のタクシー乗り場の前にたっています。
金運が良くなるといわれているパワースポットは、華やかな庭園ではなく
ひっそりとたっている、1本の大木なのです。
この大木は、何百年という間、徳川家を守ってきたといわれています。
黒門前を通ることで運が開け、大木に触れることでさらにパワーアップするといわれています。
名古屋にいくと名古屋城に足を運ぶ方が多いので、こちらは盲点になりやすい場所です。
まさに知る人ぞ知る、穴場のパワースポットといえるでしょう。
誰よりも先に、金運パワーを吸収してしまいましょう。
月別アーカイブ: 2016年6月
パワースポット:皇居や伊勢神宮に並ぶパワースポット「日光東照宮」その秘密は”龍穴”
日光東照宮と言えば世界遺産にも登録されたパワースポットです。荘厳な雰囲気の漂う様相は、そこにいるだけでも気がみなぎる感じです。この日光東照宮は徳川家康公を祀る神社で、建設の際に風水や陰陽道を駆使して建てられました。その一つが場所選びです。この神社は強大な龍穴の上に建てられています。龍穴とは、大地のエネルギーがみなぎる場所のことです。日光東照宮は男体山からの力強いエネルギーと女峰山からの柔らかいエネルギーの両方が集まる場所となっています。そのため、生命力を高めて運気を上昇させるパワースポットとなっているのです。また、建設の方角にもこだわっています。本殿前の陽明門と唐銅鳥居を結んだ上空に北極星があり、その反対側に当時の江戸がくるように作られています。これは北辰の道と言われ、奥宮から発生したエネルギーがここを通って江戸に送られるというパワースポットでもあります。さらに、東照宮の中にある主要な建物を結ぶと北斗七星の形になるように作られており、存在する5千以上の全ての彫刻に意味が込められています。
このように大きな龍穴の上に風水や陰陽道を駆使して建てられているため、大地のエネルギーが集まるパワースポットとなっているのです。
堺 妙國寺:大蘇鉄と堺事件
堺のパワースポットといえば、仁徳稜(にんとくりょう)古墳や、方違(ほうちがい)神社、などなど、強力なパワースポットが存在しますが、まだ、そう遠くない過去に、その力を発揮した特別なパワースポットがあります。
その場所は、森鴎外の著書でも取り上げられたお寺。
妙國寺。
妙國寺の見どころは、樹齢1,100年の大蘇鉄(おおそてつ)。
大蘇鉄は国指定の天然記念物に指定されており、大蘇鉄を取り巻く石組と本堂の東側庭園が一体になって雄壮な趣を演出しています。
大蘇鉄を中心とした枯山水庭園は、全国に例をみない珍しい場所で、たくさんの人が訪れます。
そして、大蘇鉄には過去に幾つもの起死回生の出来事が…
大蘇鉄は何度も絶体絶命のピンチに遭遇してきました。
直近では第二次世界大戦の堺大空襲で堺が焼け野原になってしまった時のこと。
妙國寺の本堂は、焼け落ちてしまったそうです。
が、大蘇鉄は無事でした。
その後、堺は見事に復活を遂げ現在に至ります。
時代は遡り、大阪夏の陣。
豊臣軍は、徳川家康が妙國寺にいるという情報を手に入れ、堺に火を放ちます。
そのときも妙國寺の本堂は焼け落ちましたが、大蘇鉄は無事。
話しは少しそれますが、
明智光秀による『本能寺の変』が起こったとき、妙國寺には徳川家康が滞在しており、明智光秀は織田信長の次には当然、織田信長の同盟者、徳川家康の首を狙うという状況に。
京都から堺は狙えばすぐそこ。武功を狙う落武者や、褒美を狙う山賊からも徳川家康は狙われる身となってしまいました。
徳川家康は窮地に陥り、切腹をも覚悟したそうですが、妙國寺の僧侶等の手引きにより、『神君伊賀越え』を為し遂げ、無事三河へ戻ります。
その後、義理堅い徳川家康が妙國寺を大切に扱ったことから、大阪夏の陣で豊臣軍は、徳川家康が妙國寺にいると考えてしまったのかもしれませんね。
徳川軍ラッキー?‼
話しを戻しまして…
大蘇鉄のエピソードとして、最も有名なものは戦国時代最強の暴れ武将、織田信長との逸話です。
大蘇鉄は織田信長にたいへん気に入られ、ここ堺・妙國寺から、安土城に移されました。
しかしながら、その大蘇鉄が、「堺に帰りたい」と毎晩泣くので、信長が怒り、ついには切り倒されてしまいました。
すると蘇鉄は切り口から鮮血を流し、大蛇のごとく悶絶します。あまりの不思議な光景に、信長は恐れをなし、元の場所(堺・妙國寺)に大蘇鉄を返しました。
弱りきっていた大蘇鉄に、名僧『日こう』が読経したところ、大蘇鉄は、名僧にこのような、お願いをしました。
「私の根本に鉄分を埋めて下さい。そうすれば、私は蘇ります。蘇った報恩に、男には剣難からの守護を、女には子宝安産の守護を約束します。」
そして、その後、大蘇鉄は見事に蘇ります。
近代の妙國寺は、堺事件の舞台となった事でも有名です。
時は1868年(慶応4年)、堺港に許可なく上陸したフランス軍艦の兵に対して、堺の警護をしていた土佐藩士がフランス人兵の傍若無人な振る舞いに堪忍袋の緒を切らし、フランス人兵22名を殺傷してしまいます。
その後、理不尽な裁きにより、土佐藩士20名に切腹が命じられました。
しかしながら刑の当日、あまりの土佐藩士の勇ましい腹切りに、フランス人将校が恐れをなし、途中で刑が中止されるという前代未聞の出来事が起こります。
その事件は、五代友厚氏(「あさが来た」で知られる初代大阪商工会議所会頭)らが交渉にあたったそうですが、妙國寺の剣難守護を知って、交渉役たちは、妙國寺を選んだのかもしれませんね。
妙國寺の山門を出たところには「とさのさむらいはらきりのはか」と刻まれた碑が、今でも残っています。
当時は、土佐の侍たちの勇姿を称え、妙國寺に続く街道にはたくさんの花が並ぶ日が、幾日も続いたそうです。
国のため、藩の任務のために大義を貫いた藩士を、土佐の山内容堂公は、墓を建立し篤く弔ったそうです。
土佐藩士の大和魂を思うと、心の奥が熱くなりました。
堺 妙國寺:厄除招福、安産子宝の守護神となった大蘇鉄
妙國寺の開山として知られる日珖上人は、安土桃山時代に活躍した日蓮宗の僧侶で、もとは堺の豪商の家に生まれました。
そして、17歳で京都や奈良に遊学して仏教の教学を究め、若くして京都頂妙寺の3世を継いでいます。
また、当時の幕府でもっとも有力であった戦国武将の三好四兄弟のひとり、三好之康の帰依を受けており、新たな寺院を建立するためとして、寺領500石を、阿波から取り寄せたという巨大な蘇鉄の木とともに三好之康から寄進をうけています。
日珖上人は当時の日蓮宗を代表する学識であったため、のちに織田信長によって、浄土宗と日蓮宗との宗教論争である安土宗論の場に呼び出され、法難を受けるなどしています。
また、織田信長が妙國寺の大蘇鉄を気に入って安土城下に移植したものの、蘇鉄が寺に帰りたいと泣いたため、刀で斬りつけると鮮血を流し、あまりにも妖しすぎるので寺に返還されたという伝承も残っています。
これには後日談があり、日珖上人が返還された樹木に向かって法華経を唱えて供養したところ、上人の夢に竜神があらわれて、「鉄を供えれば樹勢は蘇るであろう。蘇れば厄除招福や安産子宝に効験のある寺の守護神になろうぞ。」と申したそうな。
ここから蘇鉄という名が生まれたといわれております。
今では妙國寺の大蘇鉄は、国の天然記念物になっています。
堺 妙國寺:宝物資料館
妙國寺は、戦国時代に有名な武将たちが訪れた歴史のある寺です。枯山水の庭園は非常に趣があり、大蘇鉄は天然記念物となっています。そして、この妙國寺には宝物資料館が隣接しています。
宝物資料館には、本阿弥光悦の法華経八巻、大正天皇皇太子時代の玉座、加藤清正が奉納した宝剣、ルソン壺など多数の貴重な品が展示されています。
それらの中でも、特に大きな存在感を発揮しているのが、堺事件で自害した土佐十一烈士の遺品である土佐藩士20名の遺髪なのです。20名分の遺髪がまとめて展示されていて、当時の過酷な状況を見てとることができます。また、土佐藩士が切腹の時に使用した三方には未だに当時の血が残っていて、生々しい様子を表しています。
フランスと土佐藩との争いで多数の死者が出ましたが、責任をとるために自ら名乗り出た土佐藩士の勇気と無念な気持ちに心打たれます。
このように、妙國寺の宝物資料館には、歴史の重みを感じさせるたくさんの資料が展示され、多くの観光客の目に触れているのです。当時の国同士の軋轢や残酷な命令などを改めて認識できる貴重な品が残っています。
これからも、様々な人の心を打つものとして貴重な品は勿論のこと、私たち日本人が、けっして忘れてはいけない先人への感謝の思いを大切に守っていかなければなりません。
堺 妙國寺:パワースポットの由縁
西暦1562年(織田信長と徳川家康が同盟を結んだ年。-清洲同盟)に日蓮宗の日珖が開いたとされるお寺が堺にあります。
その名は、妙國寺。

妙國寺の庭園には、国の天然記念物である樹齢1100年(平安時代生まれ?)を超える大蘇鉄が霊木として知られています。
そして、この大蘇鉄には、様々なエピソードがあり、妙國寺がパワースポットといわれる由縁となっております。

大蘇鉄のエピソードとして特に、有名なお話。
それは、戦国時代に織田信長が妙國寺に宿泊した折、蘇鉄のあまりの見事さに感嘆し、大蘇鉄を安土城に移植してしまったために起こった出来事です。
奇妙なことに、安土城に移植された大蘇鉄は、お寺に帰りたいとつぶやきはじめました。
怪しげな現象に怒った信長が蘇鉄を切り倒すよう家来に命じると、蘇鉄を切りつけた家来が血を吐いたり、大蘇鉄がのたうったり…
さすがの信長も、これには驚愕し、大蘇鉄を妙國寺に返しました。
戻った大蘇鉄は、庭園内に植えなおしたのですが、かなり弱っており…
そこで、大蘇鉄の回復を願い日珖が法華経を唱えると、翌早朝、年老いた龍が現れて日珖にこんな事を言ったそうです。
「鉄分を埋め込みなさい。そうすれば私が蘇生した時には、報恩として男性の剣難と女性の安産を守ろう」
というものでした。堺は当時から鍛冶屋のメッカであり、剣のかけら等の鉄屑は豊富です。
早速根元に鉄屑を埋めると大蘇鉄は元気になり、御堂を建てて、大蘇鉄は、宇賀徳正龍神として祀られることになりました。

そして大蘇鉄のご利益は?‼
大蘇鉄のご利益で、剣難から守られた大名として、有名なのが前厄を翌年に控えた徳川家康公です。
戦国時代の大クーデター『本能寺の変』が起こったとき、織田信長と同盟関係にあった徳川家康公は妙國寺に宿泊しており、「もうダメだ」と腹を切る覚悟をしたそうです。
しかしながら、家臣に説得され、妙國寺の僧の手引きで堺から脱出し、明智軍から逃れることに成功しました。

徳川家康公の有名な出来事『神君伊賀超え』は、大蘇鉄のある妙國寺から始まり、徳川家康公は九死に一生の剣難から救われました。
そして、265年にわたる天下太平の時代を築きます。
もしや…
安土城から妙國寺に大蘇鉄を返したのは徳川家康!?(その報恩で、徳川家康は剣難から守られたのでしょうか。)
もし、大蘇鉄が安土城から妙國寺に戻ってなければ、本能寺の変の時に、安土城とともに大蘇鉄もなくなっていたかもしれません。
ということは、ひょっとして…
大蘇鉄には剣難からの予知能力があるのかな?
それとも…
タダの運?
?
いずれにしても…
恐るべし、大蘇鉄パワーですね。

※追伸
徳川家康公にあやかって前厄の前年には、妙國寺の大蘇鉄をお参りするというのはいかがでしょうか?‼
金運、財運、健康運、長寿運、恋愛運、天下大平、家臣運、子孫運
などなど。
あらゆる運を手にした晩年の徳川家康公みたいに。
なれるかも‼
堺 妙國寺に行ったら見ておくべきもの
南海電車の「堺東」駅の西にある堺東の商店街を抜けて、数分北へ歩くと妙國寺というお寺が…
この妙國寺の境内には、1924年に国の天然記念物に指定されている大蘇鉄が植えられていて、戦前は堺の観光といえば妙國寺ということで、大蘇鉄にご利益を求めた観光客で賑わいを見せておりました。
そして妙國寺には、本堂東側に位置する庭園と、国の天然記念物に指定された大蘇鉄とで構成されている、枯山水庭園があります。
この枯山水庭園は、白い砂がひかれた庭と、亀石組とよばれる石組の中に植えられている大蘇鉄の緑の色合いバランスが見事です。
庭園は、築山を築かない配植がなされており、平庭林泉回遊式枯山水となっています。
滝口に見立てた中央の富士型の石組みの枯れ流れの先には、石橋を架けて景色が作られた一筋と、北東の位置から低い滝口が作られて、その先に切り石の橋を架けて、枯れ流れを二筋設けています。
この二筋の枯れ流れは、方丈正面護岸石組み前で合流させて、緩やかな川の流れの景色を完成させています。
妙國寺には、この他にも千利休から贈られた六地蔵灯篭や、瓢箪型手水鉢などがあり見学できます。
勿論、一見の価値ありです‼
堺 妙國寺にゆかりのある歴史上の人物とは
妙國寺(堺市堺区)にゆかりのある歴史上の人物としては、まず徳川家康がいます。
これは本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれた時に、この妙國寺(堺市堺区)に宿泊していたといわれています。
この時家康は堺の鉄砲などを視察する目的でこのお寺に来ていたのです。
本能寺で信長が殺されたという知らせを受けた家康は、ここで切腹をしようとしたともいわれていますが、家臣の諫めに応じて思い直し、本国に戻ることにしたともいわれています。
一時は死ぬならばここでというようなことが頭をよぎったのかもしれません。
また、千利休が寄贈したといわれている、「六地蔵灯篭」や「瓢箪型手水鉢」がありますから、千利休などの茶人にも愛されたところなのでしょう。
そして、堺事件といわれる土佐藩士によるフランス帝国水兵殺傷事件のときの土佐藩士が切腹した地としても有名です。
傍若無人の振舞いをするフランス兵に我慢が出来なかった当時の人たちの想いがここにあったようにも思われます。
言葉がつうじなかったことで、銃撃戦となり双方にかなりの被害が出たようですが、20名は切腹を命じられ11名が切腹したところで、立ち合い検視人も見るに見かねて中止となり、9名は流罪となりました。
徳川家康は堺 妙國寺に宿泊していたから死なずに済んだ!?
京都で本能寺の変がおきて信長が家臣の明智光秀殺された時には、徳川家康は妙國寺(堺市堺区)に宿泊をしていました。
これは堺の鉄砲などを視察するためで、この妙國寺(堺市堺区)に泊まっていなければ徳川家康は危なかったのです。
何故かというと家康は信長の同盟者で、信長を討った光秀としては真っ先に討たねばならない相手だったからです。
明智光秀は京都に来ていた家康の接待役をしていたこともあり、家康を討つ好機でもあるといえたでしょう。
実際家康は本能寺の変を知った時には自害をすることも口に出したともいわれています。
家臣に考え直すよう説得されて、伊賀越えで三河に戻ることを選択することになるわけですが、この本能寺の変というのは家康にとっては寝耳に水の驚きの事だったはずです。
何しろこの時の家康はほとんど護衛の兵士を連れてきていません。
物見遊山で来ているわけですから当然ですが、その状態でいきなり謀反がおきたわけですから、かなり危ない状況であったことは間違いのないところです。
幸い服部半蔵が伊賀の出身で伊賀の者たちを説得して道を通ることが出来たものの、一緒に来ていた穴山 梅雪は殺されています。
ですから、家康もまかり間違えば、殺されていても不思議はなかったのです。
堺 妙國寺には徳川家康も宿泊していた!
徳川家康は織田信長が殺された本能寺の変があったときには妙國寺(堺市堺区)に泊まっていました。
この妙國寺にいたことで、家康は光秀に殺されなかったのです。
もちろん、光秀は信長を襲った後に家康を探索していたのでしょうが、結局は伊賀越えで三河の所領に帰らせてしまいました。
この時光秀が、家康も信長同様に殺害出来ていたら、天下は光秀のものともなっていたかもしれません。
何しろ家康は当時信長に次ぐ実力者でもありました。信長の同盟者ということは光秀や秀吉は家康の下ということでもあるのです。
このあたりがやはり、本能寺の変は前々から計画されていたわけではないという根拠にもなりそうです。
賢い光秀が信長を討つことだけを考えていて、家康を考えていなかったというのは考えにくいからです。
本能寺の変では家康だけではなく信忠も考えられてはしませんでした。
当時信長は跡目を既に信忠に譲っていましたから、織田家の正確な当主は信忠です。信長を討っても織田家は信忠か運営していくでしょうから、信忠を討たなけば意味がないのです。
最終的には信忠が逃げないで御所で戦うことを選んだので、光秀はこれを討つことが出来たのですが、信忠が家康のように逃げることを選んでいたら歴史は全く違っていたでしょう。
