人生50年と言われた戦国の世において徳川家康は75歳という長寿を全うしました。「長命こそ勝ち残りの源である」と語っていた家康の健康と長寿を支えたのが食生活です。
天下人となり財も名声も手に入れた家康でしたが、「ぜいたくは月に2〜3度で十分」と言い、粗食を常とし、麦飯と豆味噌中心で食事をしていました。麦にはビタミンB1や食物繊維などが豊富に含まれます。家康の麦飯は、丸粒の大麦に胚芽や糠の残った精米しかけたお米を混ぜたもので、白米よりも多く咀嚼する必要があり、それが脳や胃腸の働きを活性化させ、活力の源になったのです。
また豆味噌は、大豆と食塩、水だけを原料に作られる家康の郷里である三河(愛知)の名産で、主原料の大豆には9種類の必須アミノ酸、ビタミンE、サポニン、イソフラボンを豊富に含む脳機能の活性に欠かせない栄養が多く含まれており、こちらも活力の源となりました。
さらに粗食を好む一方で、キジやツルの焼き鳥なども適度に食し、動物性たんぱく質を摂取していました。動物性たんぱく質は血管を強くし、筋肉の衰えを予防する効果があるため健康な体作りには必須成分です。
以上のように徳川家康は生涯にわたり、心身ともに健康維持に欠かせない栄養素を多く含む食事をとり続けたことで長寿を全うすることができました。
月別アーカイブ: 2016年6月
徳川家康:長寿の秘訣?養命酒と徳川家康の関係
日本の薬用酒として有名な養命酒は、1603年には徳川家康に献上されたと言われています。その際に飛竜のインを使うことが許され、日本初の商標が誕生したとされています。
徳川家康は1543年〜1616年で、73歳まで生きました。当時の73歳といったらかなりの長寿です。
もしかしたらこれを飲んで徳川家康も長生きしていたのかもしれません。
養命酒の効能は滋養強壮で、血行促進によって肉体疲労や冷えに対して改善効果を発揮します。漢方系の成分で副作用もほとんどなく利用できるのがメリットです。
徳川家康は小さいころに人質として生活した時期があり、その時期に長寿の秘訣を会得したとも言われています。一汁一菜など、現在でも体に負担をかけない食事方法がそれにあたります。
また、自分で調剤の方法を学ぶなど、かなり几帳面な性質も持ち合わせていたと言われています。薬用酒の中身やその漢方成分の効能についても詳しかったとしたら、それを使うと自分の健康に対してどれくらい利益があるのかをはかることができたでしょう。
徳川家康に献上され、飛竜の商標をもらい、現在でもまだ販売されているというのが、養命酒の歴史です。400年以上も歴史のある商品ということになります。
徳川家康:戦国史上たぐいまれない”健康オタク”徳川家康の健康法とは
徳川家康は、誰でも一度は耳にしたことがある有名な戦国武将の1人です。そんな家康は、実は人一倍健康法に気を遣う健康オタクだったのです。その甲斐あってか、当時の平均寿命が30歳程であったにも関わらず、徳川家康は実に2.5倍もの75歳まで生きたのです。
家康は常に粗食を心掛けていました。タンパク質やミネラル、ビタミンが豊富な麦飯を好み、豆味噌中心の食事をしていました。夏でも冷たいものは口にせず、体を冷やさないと同時にきちんと火を通すことで、衛生面にも注意していたのです。また栄養価や鮮度が下がる季節外れの食材も避けていました。一方で良質な肉をほどほどに食し、十分にタンパク質を補うことも行っていました。
晩年まで鷹狩りを楽しみ、起伏の激しい山地で足腰を鍛えたり、剣術、弓術、水泳、乗馬なども好み、積極的に体を動かしていました。更に薬学を熱心に学び、100種類を超える薬草を栽培して自ら調合していたともいいます。体の不調が現れた場合には早めに対処し、自分の体は自分で守る技術も身につけていました。酒も嗜好品としてだけでなく、疲労回復などに役立つ医薬としても注目していたのです。
このように、徳川家康は健康オタクとしてあらゆることを自ら実践していたのです。
徳川家康:徳川家康の辞世の句とその意味について
辞世の句とは、この世を去る前に詠み残した詩のことで、多くの歴史の偉人たちが残しています。特に、徳川家康が残した辞世の句には、天下統一を果たした家康ならではの思いが感じ取れる詩があります。
「嬉しやと 二度さめて一眠り 浮世の夢は 暁の空」
これを現代の言葉に訳すと、「嬉しいことだ。最期かと思い目を閉じたが、また目が覚めた。この世で見る夢は、暁の夜明けのように美しい。さて、もう一眠りするとしようか。」という意味になります。
今生で叶わなかった無念や嘆き、残される者への願いを詠むことが多い中、同じ戦国時代を生き抜いたほかの武将たちに比べ、なんとも明るく、心に余裕が満ちた内容の詩を残しています。幼い頃から今川家と織田家の間で耐え忍び、長い間チャンスをうかがいながら多くの家臣に助けられ、ようやく天下を手にした徳川家康。その人生は苦悩と困難も多かったに違いありません。天下統一を果たし、江戸幕府250年の礎を築いた家康は、死を目の前にして「すべてをやりきった。もう思い残すことはない。」といった清々しい気持ちでこの詩を詠んだことがうかがえます。その奥深さはもちろん、太平の世を願った徳川家康らしい平穏を感じさせる辞世の句です。
徳川家康:意外と知られていない徳川家康の死因とは
徳川家康の死因については、一般的には鯛の天ぷらの食べ過ぎによって、食中毒を起こしたことが知られています。ところが、天ぷらの原因については不可解な点が多いため、現在では3つの説が提唱されています。天ぷらについては、1616年の当時には京都で流行していて、お抱えの豪商であった茶屋四郎次郎から伝えられたことで、徳川家康の興味を引くことになりました。実際に天ぷらを食べてから亡くなるまでには、3ヶ月もかかっているため、食中毒にしてはおかしいと考えられています。
もう一つの説は、晩年には胃癌の症状で体力が衰えていて、脾胃の調子も悪い状態で天ぷらを食べたために、悪影響が重なったという話があります。この説には確かな実証があり、徳川家康の侍医頭が触診で診察したときには、中焦の部分にしこりがあったという記録が残っています。このときには胃癌の症状が進んでいて、天ぷらを食べたとされる1616年の初頭には、免疫力もかなり弱っていた可能性があります。
3つ目には、徳川家康が大坂の陣や関が原の戦いで戦死して、その後は影武者を使っていたとする説があります。この説については都市伝説的な要素がありますが、謎が多いことも事実ですから、多くの歴史家が真実を追い求めてきました。
徳川家康:徳川家康って一体どんな性格だったの?
徳川家康は一般的にはのんびりとして、忍耐強い性格だったといわれています。ただ、これは信長、秀吉と続いて最終的に家康が長生きをしたことで天下を取る事が出来たということから来たものとも考えられます。実際の徳川家康はかなり短気だったともいわれています。というのは、三方ヶ原の戦いという武田信玄と戦った戦では信玄という経験も人望もある戦上手に対して、信玄よりも少ない兵で城から出て挑み大敗を喫するという失態を演じていたりします。爪を噛むという癖があったことも伝わっていて、かなり気が短かったのではないかともいわれています。
関ケ原の戦いにおいては、息子の秀忠軍の到着を待たずに戦闘となり、勝ちはしたものの危うく負ける寸前まで追い込まれたりしています。ただ、自分の健康へは意識が高かったことは確かで自分で薬を調合できるぐらいに医薬の道に通じていて自分で薬を調合して飲んでいたともいわれています。
徳川家康は幼少時代は人質となって今川家に送られていたり、信長との同盟時代には信長の命で自分の長男信康を切腹させるというようなことを耐えてきたというイメージがあるので、忍耐強く生きてきたのではないかと考えられているのでしょう。
徳川家康:徳川家康を支えた徳川四天王、「酒井忠次」とは
徳川家康を支えた徳川四天王の筆頭格にいたのが酒井忠次です。家康がまだ竹千代といわれていいた幼少の頃から使えている近習で、徳川四天王のなかでは最年長です。晩年は徳川の宿老として徳川家康に仕えていました。
三方ヶ原の戦いで家康が信玄に大敗して浜松城に帰ってきた時には、太鼓を打ち鳴らして城兵の士気を鼓舞して追ってくる武田軍を追い払ったともいわれています。
また、長篠の戦いにおいては信長に奇襲攻撃をすることを進言して用いられるなど数多くの戦において武功を立てています。初期の徳川軍団にあって中心的な存在となって働いていたということがわかります。同じく宿老の石川数正が出奔してからは、徳川家臣団の筆頭ともいえる地位にあったといえるかもしれません。
ただ、家康が長男の信康を切腹させることとなった事件にも関わっていて、信長の詰問に応えたのがこの酒井忠次で、この詰問に対して信康に非があると答えたことで、信長が激怒して信康を切腹させるように言ったともいわれています。家康は晩年にこのことを根に持っていたのか、忠次の嫡男家次の所領が少ないことに抗議した忠次に対して家康は、お前も我が子が可愛いかと言ったといわれています。
徳川家康:徳川家康を支えた徳川四天王、「榊原康政」とは
榊原康政は、三河武士の伝統を受け継ぐ武将であり、徳川家康を内政面で支えたことで有名です。徳川四天王や徳川十六神将の一人であり、後には上野館林藩10万石の大名として、東毛地域の発展にも貢献しました。
榊原康政は祖父の時代から徳川家に仕えた家系で、1560年には徳川家康と運命的な出会いをして、生涯にわたって支えることになります。1563年の三河一向一揆の戦いで初陣を果たし、徳川家の中で出世街道を突き進むことになりました。初期の時代には徳川家康からの偏諱によって、康政と名乗ることが許されました。
その後は姉川の戦いや長篠の戦いで功績を残しますが、小牧長久手の戦いの奮闘は特に名高く、後世まで伝えられる戦になっています。1590年には徳川家康の江戸入府に従って、本拠地を関東に移しています。1600年の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に従って参戦しますが、上田城で真田軍の猛攻を受けて、遅参する事態になりました。
晩年は不遇なこともありましたが、自らの領地では治水や土木の分野で能力を発揮し、内政面では石高の増加に貢献しています。利根川東遷事業を語る場合でも、榊原康政の功績は大変に大きいもので、江戸の下町を水害から守るためにも欠かせない存在でした。
徳川家康:徳川家康を支えた徳川四天王、「井伊直政」とは
井伊直政は、徳川家康の家臣で最強と謳われた、「井伊の赤鬼」の異名を持つ安土桃山時代の武将です。
直政は、今川氏の家臣である井伊直親の長男として生まれます。しかし、2歳のとき、父の直親が讒言をもとに掛けられた疑いにより横死してしまいます。その後、新野親矩に保護され育つものの、その親矩が討死し、さらに今川氏に命を狙われたこともあって、出家し浄土寺に入りました。
13歳のころ、直政の母の嫁ぎ先である松下清景の養子となり、翌年、徳川家康に「一目でその大器を感じた」と評され、家臣となります。それから数年間で、武田家相手に数々の戦功をあげ、22歳のころ養母であった井伊直虎が亡くなったため、井伊家を継ぎました。
武田家が滅亡後、北条氏との講和交渉で外交手腕を発揮すると、家康の命により武田の兵法を受け継ぐ部隊を編成します。その部隊は、朱色の軍装だったことから「井伊の赤備え」と呼ばれ、兜についた角のような装飾と、長槍で相手をなぎ倒す勇猛さから直政は「井伊の赤鬼」と称され、恐れられました。
家康が上洛した後に臣従した秀吉からは、武力のみならず、政治手腕も高く評価され、28歳のころには徳川家臣筆頭の侍従となり、さらに多くの戦功をあげます。そして秀吉の死後に起こる政治抗争で豊臣家の武将との交渉を取りまとめ、家康の勢力を拡大します。
その手腕は、関が原の戦いの後、毛利輝元との講和、長宗我部盛親の謝罪、島津氏との和平交渉などの仲立ちで発揮されます。しかし直政は、江戸幕府が開いて間もない1602年に破傷風で死去しますが、井伊家は、徳川家から厚い信頼を受けて、江戸後期まで徳川家を支えることとなりました。
徳川家康:徳川家康が子だくさんだったのはオットセイのおかげ!?
徳川家康は大変な健康オタクであったため、和剤局方などの古典書を愛用して、自ら漢方薬を調合していました。普段は麦飯を常食としながら、八味地黄丸を薬研を使って調合して、精力を高めるために利用していたことも有名です。八味地黄丸という方剤は、古代中国の金匱要略を出典とするものですが、徳川家康が使っていたものには違いがありました。
本来の八味地黄丸の処方を改良する形で、中世の和剤局方に記載されている用例を参考にして、オットセイの生薬が配合されたものを使うようになったのです。この生薬は海狗腎と呼ばれるもので、圧倒的な強壮作用があるため、徳川家康は高齢になってからも18人の子宝に恵まれるようになったのです。
八味地黄丸は腎陰虚に対応する方剤ですから、漢方の考え方を踏襲すれば、精力を増大するためにも有効です。山薬や地黄などの生薬が含まれ、最初から十分な強壮作用があるのですが、オットセイの大事なところを加えているのですから、効果が高くなるのも当然のことです。徳川家康は老年になってからも生薬の研究を続けて、徳川家の子孫を残すための方法を探っていました。漢方医学を愛好する徳川家康の趣味のおかげで、徳川幕府は260年にわたって繁栄し、八味地黄丸の名声は現在まで伝わっています。