堺市民に愛され続ける堺 妙國寺の歴史

妙國寺(堺市堺区)は、今でも堺市民から愛され続ける名刹で、400年以上の歴史を有しています。

周囲が都市化する中でも、壮麗な伽藍を維持し、時代の荒波と戦ってきた寺院としても知られる存在です。

戦国時代に畿内で大勢力を有していた三好氏の一族の中で、三好之康が帰依したことは有名ですが、戦死後には意志を引き継ぐ形で、日蓮宗の名僧によって開山したのが始まりです。

最初に伽藍を建立したのは1568年のことであり、広普山妙國寺という名称が与えられ、勅願所に列せられていました。

1571年には大規模な本堂が落成し、大伽藍は学問の中心地としても大いに繁栄しました。

大坂の陣では徳川家康が潜んでいるという情報がもたらされた影響で、豊臣軍によって焼き討ちにされて、寺域は焼け野原になってしまいました。

江戸時代には徐々に復興が進み、堂宇も創建当時の状態に戻りますが、1945年の大坂大空襲によって再び壊滅的な被害を受けています。

妙國寺(堺市堺区)は、長い歴史の中で何度も戦火に巻き込まれてきましたが、太平洋戦争後にも見事に復興し、1973年には本堂が再建されています。

境内には樹齢が1100年になるとされる大蘇鉄が残り、妙國寺(堺市堺区)の歴史を象徴する植物として、毎年のように注目を集めています。

「英傑三国誌伝」にでてくるソテツのあるお寺「妙國寺(堺市堺区)」

妙國寺(堺市堺区)のソテツは英傑三国誌伝に描かれています。織田信長によって安土城に移植され、激怒した信長がソテツを切ったところ血が流れたことで、気味が悪くなり寺へと返された逸話があります。その妙國寺(堺市堺区)は、大阪市の南、堺区にある日蓮宗の本山で、幕末の土佐藩士切腹で堺事件としてゆかりある寺でもあります。寺内にあるソテツ「大蘇鉄」は国の天然記念物でもあり、堺のシンボㇽともなっています。樹齢は1,100年を超え織田信長の逸話などは「蘇鉄の伝説」としても伝わっています。また蘇鉄だけでなく、お寺の庭園も堺市の指定文化財になっており、蘇鉄を取り囲む石組みの風景は見事で珍しくもある組み合わせは、回遊式枯山水庭園と言われます。妙國寺は日蓮宗の僧侶が開いたとされ、庭園以外でも千利休が寄与した六地蔵灯篭や瓢箪型手水鉢などもあり、慶応4年に堺港に上陸したフランスの軍艦兵に対し土佐藩士が阻止を企みフランス兵を数十名殺傷し、切腹したことで、「とさのさむらいはらきりのはか」の刻まれた石碑も有名です。また相州鍛冶の祖である新藤五の短刀銘や備前長船住長義の脇指も重要文化財として、堺市博物館に保管されています。

堺 妙國寺にはなぜ土佐十一烈士の供養塔があるのか

妙國寺(堺市堺区)は日蓮宗の日珖が開いたとされており、樹齢約1100年のソテツが有名で通称・蘇鉄寺とも呼ばれています。ちなみにこの大ソテツは国の特別天然記念物にも指定されており、「夜泣きのソテツ」という逸話が残っていることからも安産祈願のお寺として多くのひとに親しまれています。
さて、そんな妙國寺(堺市堺区)には土佐十一烈士の供養塔があることをご存知でしょうか。これはいわゆる「堺事件」の際に土佐藩士11名がこの妙國寺で切腹をしたことに起因します。堺事件とは慶応4年、堺の港にフランス水兵が上陸した際に、当時堺の警備の任に当たっていた土佐藩士に殺傷された事件のことです。フランス公使であったロッシュは政府に対し、関係した藩士の斬首、賠償の要求などを行いました。政府もフランス側の要求を飲まざるをえず、賠償金の支払と、事件に大きく関与した箕浦猪之吉以下20名を切腹させる事となりました。この際、切腹していく藩士たちはフランス人たちに内臓を投げつけたと言われており、あまりの凄惨さにフランス側の被害者と同数の11名が切腹したところで、刑の中止となりました。
他にも織田信長、千利休など歴史上の人物もゆかりのある妙國寺に一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

堺 妙國寺の庭園は堺市指定文化財!

妙國寺(堺市堺区)は、大阪府堺市堺区にある日蓮宗の本山です。日珖が開いたとされており、日本で唯一の蘇鉄が中心となった枯山水庭園です。境内にある大蘇鉄は樹齢1,100年程と言われており、国指定の天然記念物でもあります。
この蘇鉄にはとある伝説が残っています。天正7年(1579年)に織田信長が安土城に移植させたところ庭の蘇鉄が帰りたいと呟く様になったのです。怒った信長が、切り倒しを命じたところ家来がみな血を吐いて倒れてしまいました。信長が祟りを恐れたことからとうとう妙國寺に返還されることとなりました。戻ってきたものの、蘇鉄は弱り、枯れる寸前になってしまいます。そんな弱り切った蘇鉄が、日珖に鉄分のものを与えて、仏法の加護で蘇生することができたら、恩に報いる為に男の苦難除けと女の安産を守ると約束したという言い伝えがあるのです。日珖が鍛冶屋を呼んで、鉄屑を根元に埋めさせたところ、枯れかけていた蘇鉄は蘇り、その後は寺で、守護神宇賀徳正竜神として祀られることとなりました。このことをきっかけに、妙國寺の蘇鉄は安産祈願のスポットともなっています。蘇鉄の根元に安産を祈願して、鉄屑などを埋める人達も多いのです。
また、妙國寺(堺市堺区)の庭園には、千利休に寄贈された六地蔵灯篭や瓢箪型手水鉢もあり、本能寺の変の際には徳川家康が宿泊していたことでも有名です。堺市指定文化財として堺の町が誇る存在となっています。

徳川家康:正室2人、側室16人以上?の子だくさんパワー!

江戸幕府を開いた徳川家康。その正妻や側室の数は意外と知られていません。では何人いたのかといいますと、正妻が2人、そして側室はなんと16人以上?存在していたのです。

当時の大名には、後継ぎを産むために側室がいるのが当たり前ではありますが、この数は群を抜いています。

徳川家康の最初の正妻である『築山殿(つきやまどの)』は、今川義元の親戚にあたり、家康が今川家で人質時代を送っていたときに正室となりました。長男信康を産んでいますが、織田信長の命によって信康ともども家康により殺されてしまいました。

二人目の正室である『朝日姫(あさひひめ)』は豊臣秀吉の妹であり、これは完全な政略結婚。子供を授かることはありませんでした。そのかわり、家康は16名もの側室を持ち、多くの子供を授かっています。

二代将軍秀忠も側室が産んだ子供です。この多くの側室の中でも家康に寵愛されたのが『阿茶局』です。彼女は家康の子供を産むことはありませんでしたが、家康からの絶大なる信頼を勝ち得ていました。

彼女は1614年の大阪冬の陣では豊臣方との和睦交渉の大役を任されるほどでした。彼女は側室というよりも家康の参謀と言えるような立場の人だったのです。

徳川家康:徳川家康と徳川埋蔵金

徳川埋蔵金伝説の発端は、江戸時代が幕を下ろし、明治時代に移り変わる時、旧幕府軍が持っていたと思われる幕府御用金が全くなかったことで、どこかに隠してあるのではないかという騒ぎになり、当時の勘定奉行が隠遁していた場所を中心に、このあたりに徳川埋蔵金があると噂になり、至る所で発掘が行われるようになりました。それが伝説として今も語り継がれています。

徳川家康が残した軍用金をめぐっても、こうした徳川埋蔵金伝説はあります。1616年に徳川家康が亡くなった際、駿府城には多くの金銀がありました。その金銀は日光東照宮の建立に使われ、駿府城にあった金銀は跡形もなく消えたと言われていました。しかし、この際に実は裏帳簿があり、一部が残されているのではないかという説が言われたこともあります。他にも、江戸幕府自身が他の大名の埋蔵金を発掘し、それを保管していたのではないかという説まであります。江戸時代から本格的に貨幣経済がスタートし、米を貨幣に換えるなど、様々な形で貨幣が登場し、小判に含まれる金の含有量で貨幣の価値を決めるなどしてきました。こうした名残から、小判として最も価値の高かった徳川家康の時代のものなどは今でも取引される値段が高くなっています。

徳川家康:徳川家康の遺言とはどんなものだったのか

徳川家康の遺言といわれているものは、次の四つのようなことです。
一、遺体は駿府城の近くの久能山に埋葬すること
二、葬儀は江戸の増上寺で行うこと
三、位牌は三河の大樹寺にすること
四、一周忌を過ぎた後に、日光に堂を建てて守り神とすること
などでした。天下を取った徳川家康としてはなんともつつまし気な感じもする遺言ではありますが、これを守って三大将軍家光は日光東照宮を建立しました。
ただ、家康としては小さいお堂を建ててと遺言していたつもりだったのですが、家康好きの家光としては出来るだけのことをしてあげたかったのでしょう。なんとも豪勢なものを作ってしまいました。これが家康の望みにかなっていたかどうかは分からないのですが、天下を治める徳川の威厳というものも考えれば、こうしたことになるのかもしれません。家康は神となって祭られることとなったわけですが、これは単に家光が家康に恩を感じていて、おじいちゃん子だったというだけではなく、日本に古くからあるご先祖様を大切にするという考え方の現れでもあるともいえるでしょう。ただ、当時の政権がこれに絡んでいるので、いろいろといわれることもありますが、基本的なところはご先祖様を敬うということです。

徳川家康:徳川家康ゆかりの城~静岡編~

徳川家康は、静岡と深い関わりがあります。浜松城は、静岡県浜松市中区にある城跡で、16世紀の初めに今川貞相によって築城されたと言われています。元は斯波氏が支配していた土地ですが、1514年、抗争に勝利した今川氏の支配下となり、領地内に曳馬城として築城されたのが最初です。
1568年には徳川家康によって攻略され、武田氏の侵攻に備えるべく1570年に拡張を実施、地名を浜松に改めると同時に、曳馬城は「曳馬」が戦に敗れることを連想させるため、浜松城へと改名しました。城主を務めた人の多くが出世したことから、「出世城」とも呼ばれています。
徳川氏の勢力増大もあり、徳川家康は1586年に駿府へと移り、築城したのが駿府城です。元は武田氏の領地でしたが、1582年に武田氏が滅んだことで徳川氏の領地となっていました。駿府城の築城は松平家忠が担当しましたが、1590年には権力を握っていた豊臣秀吉の領地になり、家康は一旦江戸へ国替えとなりました。
しかし、関ヶ原の戦いによって天下人となった徳川家康は、隠居した際に大御所として再び駿府の地に戻り城主となりました。徳川家康は1616年に亡くなりましたが、以降も徳川氏によって守られ、現在は資料館としても公開されています。

徳川家康:徳川家康ゆかりの観光地といえば?

徳川家康と言えば、全国統一を成し遂げただけではなく、その後250年以上続く江戸時代の始まりとなった偉大な戦国武将です。その功績は日本の長い歴史の中でも有数と言えるもので、歴史マニアの中でもファンの多い人物となっています。
そんな徳川家康、全国を統一したわけですから、ゆかりの地は全国各地にあるのですが、その中でもやはり東海地方は家康の出身地だけあって多くの観光地があります。今回は、そんな徳川家康ゆかりの観光地をいくつかご紹介します。
まずは出生地でもある愛知県岡崎市です。中でも、生まれた場所と言われる岡崎城は特に有名です。この岡崎城は明治時代に廃城となりましたが、現在は岡崎公園内に復元されその姿を見ることができます。天守閣にはもちろん登りたいところですが、他にも春には五万石の藤と呼ばれる大きな藤棚一面に花が咲き、これを目当てに訪れる人も多数います。時期が会えば寄りたいところですね。
そして、もう一つゆかりの地として有名なのが浜松です。この地にある浜松城は、岡崎城から本拠地が移された後17年もの間家康の居城となった場所です。この浜松城の見どころと言えば、現在も400年前当時の姿のまま残る石垣です。自然石を上下に組み合わせて積み上げたもので、その荒々しさ、風情は必見と言えるでしょう。

徳川家康:徳川家康が熱中した「鷹狩り」とはどんなものなのか。現代でもできる?

日本での鷹狩りの歴史の記録されたのは、355年の仁徳天皇の時代に遡ります。
その後、公家や皇族などが親しみ、さらに戦国時代には織田信長をはじめとする大名が積極的に取り入れており、卵から鷹を育成した記録書「養鷹記」を朝倉教景が残しています。
大名の中でも最大限に活用したのが徳川家康です。
徳川家康の鷹狩りの特徴は、単なる趣味の域を超えて養生法として行ったことが知られています。
「中泉古老諸談」によると、内臓の働きを促して食事や睡眠に良い影響を与えること考えた徳川家康は、体を鍛えるために活用し、側近に鷹匠組という技術者集団まで用意していたほどです。
また、歴代の将軍家の中では、三代将軍家光が好んでいたと伝えられています。
現代の日本では非営利活動法人日本鷹匠協会が活動しているので、初めての方でも時間はかかりますが鷹狩ができます。
空港で鷹匠が活躍していることでも知られています。
航空機の巨大なエンジンに鳥が巻き込まれるバードストライクを防ぐために鷹匠を配置し、滑走路上へ移動したり、近くで羽を休ませようとする鳥達を追い払います。
動物園などのショーでも活躍しています。
鋭い目つきをした猛禽類たちが静かに鷹匠の腕にとまり、合図をすると一気に獲物へ向けて飛びかかる迫力ある姿を楽しめます。