堺 妙國寺:大蘇鉄と堺事件


堺のパワースポットといえば、仁徳稜(にんとくりょう)古墳や、方違(ほうちがい)神社、などなど、強力なパワースポットが存在しますが、まだ、そう遠くない過去に、その力を発揮した特別なパワースポットがあります。

その場所は、森鴎外の著書でも取り上げられたお寺。

妙國寺。

妙國寺の見どころは、樹齢1,100年の大蘇鉄(おおそてつ)。

大蘇鉄は国指定の天然記念物に指定されており、大蘇鉄を取り巻く石組と本堂の東側庭園が一体になって雄壮な趣を演出しています。

大蘇鉄を中心とした枯山水庭園は、全国に例をみない珍しい場所で、たくさんの人が訪れます。

そして、大蘇鉄には過去に幾つもの起死回生の出来事が…

大蘇鉄は何度も絶体絶命のピンチに遭遇してきました。

直近では第二次世界大戦の堺大空襲で堺が焼け野原になってしまった時のこと。

妙國寺の本堂は、焼け落ちてしまったそうです。

が、大蘇鉄は無事でした。

その後、堺は見事に復活を遂げ現在に至ります。

時代は遡り、大阪夏の陣。

豊臣軍は、徳川家康が妙國寺にいるという情報を手に入れ、堺に火を放ちます。

そのときも妙國寺の本堂は焼け落ちましたが、大蘇鉄は無事。

話しは少しそれますが、

明智光秀による『本能寺の変』が起こったとき、妙國寺には徳川家康が滞在しており、明智光秀は織田信長の次には当然、織田信長の同盟者、徳川家康の首を狙うという状況に。

京都から堺は狙えばすぐそこ。武功を狙う落武者や、褒美を狙う山賊からも徳川家康は狙われる身となってしまいました。

徳川家康は窮地に陥り、切腹をも覚悟したそうですが、妙國寺の僧侶等の手引きにより、『神君伊賀越え』を為し遂げ、無事三河へ戻ります。

その後、義理堅い徳川家康が妙國寺を大切に扱ったことから、大阪夏の陣で豊臣軍は、徳川家康が妙國寺にいると考えてしまったのかもしれませんね。

徳川軍ラッキー?‼

話しを戻しまして…

大蘇鉄のエピソードとして、最も有名なものは戦国時代最強の暴れ武将、織田信長との逸話です。

大蘇鉄は織田信長にたいへん気に入られ、ここ堺・妙國寺から、安土城に移されました。

しかしながら、その大蘇鉄が、「堺に帰りたい」と毎晩泣くので、信長が怒り、ついには切り倒されてしまいました。

すると蘇鉄は切り口から鮮血を流し、大蛇のごとく悶絶します。あまりの不思議な光景に、信長は恐れをなし、元の場所(堺・妙國寺)に大蘇鉄を返しました。

弱りきっていた大蘇鉄に、名僧『日こう』が読経したところ、大蘇鉄は、名僧にこのような、お願いをしました。

「私の根本に鉄分を埋めて下さい。そうすれば、私は蘇ります。蘇った報恩に、男には剣難からの守護を、女には子宝安産の守護を約束します。」

そして、その後、大蘇鉄は見事に蘇ります。

近代の妙國寺は、堺事件の舞台となった事でも有名です。
時は1868年(慶応4年)、堺港に許可なく上陸したフランス軍艦の兵に対して、堺の警護をしていた土佐藩士がフランス人兵の傍若無人な振る舞いに堪忍袋の緒を切らし、フランス人兵22名を殺傷してしまいます。

その後、理不尽な裁きにより、土佐藩士20名に切腹が命じられました。

しかしながら刑の当日、あまりの土佐藩士の勇ましい腹切りに、フランス人将校が恐れをなし、途中で刑が中止されるという前代未聞の出来事が起こります。

その事件は、五代友厚氏(「あさが来た」で知られる初代大阪商工会議所会頭)らが交渉にあたったそうですが、妙國寺の剣難守護を知って、交渉役たちは、妙國寺を選んだのかもしれませんね。

妙國寺の山門を出たところには「とさのさむらいはらきりのはか」と刻まれた碑が、今でも残っています。

当時は、土佐の侍たちの勇姿を称え、妙國寺に続く街道にはたくさんの花が並ぶ日が、幾日も続いたそうです。

国のため、藩の任務のために大義を貫いた藩士を、土佐の山内容堂公は、墓を建立し篤く弔ったそうです。

土佐藩士の大和魂を思うと、心の奥が熱くなりました。

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