徳川家康ゆかりの城~東京編~

江戸城は徳川家康の時代に拡大し、260年間に及ぶ徳川幕府の本拠地として栄え、現在では一部が皇居東御苑として開放されています。この地は武蔵野台地の最東端に位置し、神田川の祖先になる平川が周囲を流れ、日比谷入江が近くに迫る場所でした。最初に築城したのは1457年のことで、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌の活躍によって、最初の整備が行われています。

徳川家康は1590年に江戸城に入りますが、当時の段階では人が住むには不向きな土地であったため、大規模な天下普請が行われています。最初には荒川と利根川の瀬替えをして、湿地帯であった江戸の土地を改良することで、防備の体制を整えました。日比谷入江を埋め立てるために、神田山の土を切り崩したとする説がありますが、詳細なことは分かっていません。

日比谷入江が埋め立てられ、外濠や内濠の整備が進むと、壮大な規模の天守も完成しました。天守は壮大な規模で構築されたのですが、明暦の大火で焼失した後には、財政的な理由もあって再建されることはありませんでした。現在では皇居東御苑の一部に天守台として残り、大規模な石垣の遺構を観察できます。徳川家康の命令によって整備された盛土は、太田道灌の時代に作られた土台と重なっていますが、ボーリング調査によって実態が判明しています。

徳川家康ゆかりの城~愛知編~

愛知県と言えば尾張地方。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人が活躍した土地です。
その中でも天下を統一した徳川家康ゆかりの城にスポットライトを当ててみます。

名古屋城は徳川家康が天下統一の最後に九男義直の尾張藩の居城として築城しました。
その背景には、大阪の豊臣秀吉を睨むべく尾張平野の要地に大規模な城郭が必要と考えられていたから、とされています。
実際に名古屋城は豊臣系の大名に助役を命じ、その財と労力を使って築かれました。
また、名古屋城と言えば金の鯱ですが、2匹のそれは大阪城のものよりも金が厚く、西側から見たときに最も輝くように設計されているそうで、家康が秀吉にその財力を誇示するために造られたとか。

小牧城は織田信長によって築城され、その後徳川家康に利用された歴史を持ちます。
織田信長は桶狭間の戦いに勝利すると、美濃を自分の勢力下に置くべく攻め入ろうとします。
下準備として家康と清州城において清州同盟を結び、美濃国を攻め入るのですが、この時に本拠地に選ばれたのが小牧山でした。
そうして信長が美濃を攻め落とすと小牧城は一旦役目を終えます。
その後、豊臣(羽柴)秀吉と家康が戦った小牧・長久手の戦いにて家康が小牧城に目をつけ、本陣を置きます。
信長の築いた城に手を加え強固な陣地が置かれたことで焦った敵陣が無謀な攻撃を仕掛けたことで家康は勝利を手にします。

なぜ徳川家康は三方ヶ原で武田軍に敗れた後に肖像画を描かせたのか

徳川家康三方ヶ原戦役画像の徳川家康は頬杖をつき、憔悴しきった顔つきをしていて威厳のかけらもありません。
教科書でよく見る、徳川幕府を開いて自信に満ち溢れた肖像画しか見たことが無かったら衝撃を受けるでしょう。
頬はこけ眉は下がり口角は下がって歯を食いしばっている姿からは大きな後悔と悔しさが見て取れます。
徳川家康は、三方ヶ原の合戦で武田軍に敗れ命からがら敗走した時の姿を描かせましたが、これは別名「顰(しかみ)像」と呼ばれています。
武田方の挑発に乗り、多数の部下を失いながら浜松城に逃げ帰った際に絵師にその大失敗を描かせ、生涯の戒めとしてそばに置き頭に血が上って無理を通しそうになったときはこの絵を見て冷静さを取り戻していたと伝えられています。
また、恐怖のあまりに脱糞してしまったという逸話もあり家康にとってはその恐怖は忘れたくても忘れられない強烈な物だったでしょう。
この敗走は、後の伊賀越えと並んで徳川家康の人生最大の危機といっても過言ではありません。
後の戦いにおいて家康は織田信長とともに武田家の嫡男武田勝頼を自害に追い込み、武田家の滅亡に大きな働きをしました。
武田家の重臣を寝返らせ、用意周到に内部の力を削っていったので、徳川家康三方ヶ原戦役画像の効果は絶大でした。

徳川家康を支えた徳川四天王、「本多忠勝」とは

本多忠勝は三河国で本多忠高の長男として生まれ、幼い時から徳川家康に仕えてきました。徳川家康を支えた功臣として名高く、酒井忠次、榊原康政、井伊直政と並び徳川四天王と称され、徳川家康の側近として江戸幕府の樹立に貢献した武将です。
徳川四天王として本多忠勝にまつわる数々の武勇伝が残されています。元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは家康本陣に迫る朝倉軍の豪傑である真柄十郎左衛門と一騎討ちをしその名声が世に広く知れ渡りました。天正元年(1573年)には長篠城攻めを行い武田軍を破り長篠城を獲得、また天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは16万という豊臣方の大軍の前に立ちはだかり川で馬の口を洗わせるという大胆な行動を取り豊臣方の進撃をためらわせました。このような大胆な行動力とその活躍により織田信長や豊臣秀吉からも一目置かれていました。これらの戦いの他にも慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いまで生涯において57回もの戦に参加しています。頭には何枚もの和紙を貼り合わせて黒い漆で塗り固めた兜に鹿の角をあしらった鹿角脇立兜をかぶり、その手には天下三名槍の一つにも数えられている刃の長さが43.8cmの大身槍である蜻蛉切を持ち戦い、生涯において戦いでかすり傷一つ負ったことがない最強の武将であったと伝えられています。

現代を生きるあなたに知っておいてほしい、徳川家康の名言

徳川家康と言えば、天下泰平江戸三百年の礎を築いた日本史上もっとも有名な戦国武将と言っても過言ではないでしょう。関ヶ原の戦いにおいて敵対勢力を打ち破り、天下をほぼ手中に収めた徳川家康は、征夷大将軍となって江戸幕府を開き、隠居後もその絶大な権力を揮ったと言われます。また、死後も東照大権現として神格化され、現代もなお信仰の対象として人々に敬われています。しかしその人生は常に順風満帆であったわけではなく、並々ならぬ苦労人であったことでも知られています。幼少期は今川家に送られた人質としての生活を強いられていたことも有名な話ですね。さて、今川・織田・豊臣ら、名だたる武将に翻弄されながらも、最終的に天下の覇権を握った徳川家康は、現代にも通ずる多くの名言を残しています。ここで、そのいくつかを挙げてみましょう。まず、有名なところでは『己を責めて人を責むるな』という言葉があります。何か不都合な事態に直面したときは、人の過ちを探して責めるのではなく、己の中に原因はなかったかよく考えてみよという意味です。近頃はよく『自己責任』という言葉が取り沙汰されていますが、弱肉強食の戦国時代にあってこのような考え方に至ることができた徳川家康の人間力は、尋常なものではなかったことが伺えます。また『堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思え』という言葉も有名ですが、人柄のよく表れた名言なのではないでしょうか。無用な怒りは見る目を曇らせ、部下の心を自分から離れさせる原因になることを知っていたのでしょう。徳川家康の名言は、多忙に流されて大切なことを忘れがちな現代のわたしたちに、忘れてはならないものは何かを教えてくれます。

徳川家康も絶賛したと噂の”生せんべい”って何?

愛知県に伝わっている和菓子に生せんべいという名前のものがあります。せんべいという名前からはあまり想像しにくいですが、米粉をベースにして作られている半生菓子です。せんべいのように焼いたりしないで、そのままの状態でいただきます。このお菓子は三枚一組になっており、食感がもっちりとしていて、甘さもくどくなくてほんのりとしているので、甘いものが苦手な人でも食べやすい素朴なお菓子となっています。一般的なものは上白糖を使った白いものと、黒砂糖を使った茶色いタイプの二つですが、新しく抹茶を使った緑色のものも登場しています。
生せんべいの歴史は古く、徳川家康の時代にさかのぼると言われています。徳川家康が母親のいるところに行くために逃亡していた時に見つけた、干されていた生のままのせんべいを献上したのがルーツだと言われています。全国的にはあまりなじみのないお菓子かもしれませんが、全国に広がっているういろうや、京都の和菓子として知名度の高い八つ橋の原型とも言われているので、和菓子全体に与えた影響は小さいものではないのかもしれません。
徳川家康も食べて絶賛したという和菓子と聞けば、一度は食べてみたくなるのではないでしょうか。

知ってた?「向かい干支」グッズで開運!

自分の干支が何なのか、きちんと知っている人はいても、向かい干支が何かを知っている人はあまりいないのではないでしょうか。十二支を順番に時計回りに配置した時に自分の干支と向かい合っている干支のことを言い、その干支のグッズを持ち歩いたり、部屋に置いておくことで自分の干支の持っているパワーよりさらに大きな開運効果を引き出すことができると考えられています。例えば酉年の人は卯が該当しますから、ウサギのグッズをたくさん集めておくと開運に繋がるという事です。明治時代の文豪も運気を上昇させるために自信の向かい干支のグッズを集めていた記録がありますから、その歴史はかなり古いんですよ。
向かい干支グッズは干支を特に意識しているものでなくてもよく、該当する動物があしらわれていたり、プリントされているものでもいいので、身近なもので簡単に実践できてしまいます。ぬいぐるみやストラップならキャラクターグッズになっているものもありますし、大半の干支の動物なら集めやすいのではないでしょうか。ねずみやうさぎ、犬などは特に集めるのには困らなそうですね。動物のイラストがプリントされているおまんじゅうなどを食べるのも運気を呼ぶことができそうです。

堺 妙國寺でしてはいけないこと

妙國寺は、大阪府堺市堺区にある日蓮宗の本山です。
幕末に起こった堺事件のゆかりの寺としても有名な場所です。
妙國寺には、立派な蘇鉄がありますが
古くは徳川家康、また正岡子規や夏目漱石も見たという蘇鉄です。
この蘇鉄は織田信長がたいへん気に入り、安土城に移植させたのですが
毎夜毎夜、「堺へ帰ろう、妙國寺へ帰ろう」とすすりないたそうです。
激怒した信長は、その蘇鉄を切り倒そうとしたところ切り口から鮮血が流れ出てきたそうです。
気味が悪くなった信長は、妙國寺に返したといわれているのです。
そんないつわのある蘇鉄ですが、カメラやビデオでの撮影はダメだといわれています。
館内の中も撮影は禁止されています。
また、堺事件で切腹した11人の烈士の墓石があるのですが
その中に立ち入ってお参りするのもダメだといわれています。
館内には、ロマンのあるものがまだまだたくさん残っているようですが
写真に収めるのは禁止されています。
逸話のある蘇鉄や11人の烈士の墓石をみるためには、入館料が400円かかりますが
館内を案内してくれる方がついてくれますので、丁寧な説明を聞きながら
館内を回ることができるので、写真撮影をしなくても満足感に浸れることでしょう。

男の険難と女の安産を守ってくれる大蘇鉄のある「堺 妙國寺」

妙國寺にある、名勝妙國寺庭園には、立派な石組に囲まれた、見事なソテツの木があります。樹齢は1100年以上で、国の天然記念物に指定されている名木です。ソテツは暖かい地方のお屋敷や寺によく見かける植物で、漢字で蘇鉄と書かれるとおり、弱っていても鉄を根元に与えると蘇ると伝えられています。
妙國寺(堺市堺区)のソテツには、織田信長にまつわる伝説があります。
妙國寺のソテツに魅了された織田信長は天正7年、この木を自らの居城である安土城の庭に移植しました。ある夜、庭を眺めながら一人静かに考え事をしていると、どこからともなく奇妙な声がしてきます。家臣に調べさせたところ、ソテツの木が妙國寺を恋しがり、しきりと「帰ろう」と繰り返しているとのこと。声を聞くうちに我慢ならなくなった信長は、切ってしまえと家来に命じますが、切りつけた家来は皆血へどを吐いてばたばたと地面に倒れる始末。さすがに祟りを案じた信長は、ソテツを妙國寺へ返上しました。
寺に帰れたソテツは安心したのか、それまでにたまった疲れが出てぐったりと弱ってしまいました。妙國寺を開山した日蓮宗の名僧日珖が、法華経一千部を唱えてソテツの回復を祈っていると、ソテツの声が聞こえます。「根元に鉄でできたものを埋めてください。あなたのお経と鉄分で私が生き返ることができた暁には、男を険難から守り女の安産を助ける神となって、ご恩返しをいたしましょう。」
日珖に命じられた鍛冶屋の鉄屑を与えられたソテツは見る見るうちに元気になり、宇賀徳正竜神と名付けられ御堂も建てられました。それ以来、安産祈願の人々がソテツの根元に折れ針や鉄屑を埋めるようになりました。

森鴎外の「堺事件」の地、堺 妙國寺へ行ってみよう

妙國寺は、大阪から電車で約40分、南海高野線堺東駅から北西に歩いて約10分の場所に位置します。

日蓮宗が本山の妙國寺(堺市堺区)は、森鴎外が1914年(大正3年)に発表した小説「堺事件」の題材になりました。

森鴎外の「堺事件」は、土佐藩士が妙國寺の境内にてフランス兵士を殺害した責任から切腹を命じられ、命を落とすまでの経緯を非情かつ冷静な文体で描ききった歴史小説の金字塔です。

創作でありながらも、その当時の様子は史実に忠実です。寺の境内には、歴史を語る上で欠かせないものたちを見ることができます。まず、庭園には、堺市指定名勝で国指定天然記念物のソテツ(蘇鉄)。このソテツは織田信長が移植のため切り倒そうとしたところ、その切り口から鮮血が流れたという伝説のソテツです。

また、千利休が戦国武将をもてなす際に用いたとされる、利休ゆかりの手水鉢や灯篭も残っています。

土佐藩士の無念、そして、切腹という儀式を通して語られる藩士の潔さと勇敢さ。

妙國寺前の宝珠院に葬られた、藩士のお墓を前にすると感慨深いものがあります。

森鴎外が描いた幕末の壮大な歴史小説、妙國寺(堺市堺区)を訪れ、その雰囲気を味わいながら再読してみてはいかがでしょうか。